源義親 (みなもとのよしちか)
生年不詳〜1108年
【概説】
平安時代後期の武将で、河内源氏の棟梁・源義家の子。対馬守などの任地で乱暴を働き、流罪先の隠岐から逃れて出雲で反乱(源義親の乱)を起こした人物。平正盛によって討伐され、この事件は河内源氏の没落と伊勢平氏台頭の決定的な契機となった。
河内源氏の嫡流と義親の「狂暴」
源義親は、「天下第一の武勇の士」と称えられた源義家(八幡太郎)の二男であり、実質的な後継者と目されていた。しかし、対馬守に任じられると、九州の太宰府の命令に従わずに人民を殺害し、さらには隣国の肥前国を侵略するなど、朝廷の統制を無視した「狂暴」な振る舞いを繰り返した。朝廷は父・義家の追討命令や、隠岐国への流罪を科すなどの処分を下したが、義親はこれに服さず、隠岐から脱出して出雲国へと渡った。そこで目代(国司の代理)を殺害し、官物を奪うなどの本格的な反乱(源義親の乱)を引き起こした。
源義親の乱と伊勢平氏の台頭
義親の蜂起に対し、白河上皇率いる院政期の朝廷は、伊勢平氏の平正盛を追討使に任命した。1108年、正盛は出雲において義親を討伐し、その首級を京都に持ち帰って凱旋した。この事件は、当時の「源平」の勢力バランスを大きく激変させる契機となった。これまで武士の頂点に君臨していた河内源氏が、一族の有力者である義親の乱行と敗死、さらに後継者争いによって急速に衰退したのに対し、乱を平定した平正盛は白河上皇の厚い信任を得て躍進した。正盛の子が忠盛、孫が平清盛であり、義親の討伐こそが、のちの平氏政権の誕生へとつながる歴史的転換点となったのである。