改税約書 (かいぜいやくしょ)
【概説】
1866年(慶応2年)、江戸幕府とイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国との間で調印された関税率改定の協定。列強からの強力な圧力を受け、それまで品目ごとに異なっていた輸入関税率が従価一律5%という極めて低い水準へと引き下げられた。これにより日本の産業は深刻な打撃を受け、後の明治政府にとって関税自主権の回復が最大の外交課題の一つとなった。
安政の五カ国条約からの転換と列強の圧力
1858年に締結された安政の五カ国条約(日米修好通商条約など)において、日本の輸入関税は品目ごとに異なり、多くの工業製品に対しては20%の税率が適用されていた。しかし、尊王攘夷運動の激化に伴う国内の混乱により、江戸幕府は本来約束していた兵庫(現在の神戸)の開港や江戸・大坂の開市を延期せざるを得ない状況に陥っていた。これに対し、1864年の四国艦隊下関砲撃事件で幕府の弱体化を見た列強、特にイギリス公使ハリー・パークスは、下関事件の莫大な賠償金の減免や支払い猶予を交渉材料として、幕府に対する圧力を強めた。
1865年には英・仏・蘭・米の四カ国艦隊が兵庫沖に侵入し、兵庫の早期開港、条約の天皇勅許、そして関税率の引き下げを強硬に迫る事態(兵庫開港要求事件)が発生した。幕府は兵庫の前倒し開港こそ拒絶したものの、朝廷を説得して条約の勅許を得るとともに、関税率の大幅な見直しに同意せざるを得なかったのである。
協定の締結と「一律5%」への引き下げ
これを受けて1866年(慶応2年)、幕府と四カ国の代表との間で江戸において調印されたのが改税約書(別名:江戸条約)である。この協定の最大の特徴は、それまで20%であった主要品目の輸入関税率を、輸出入ともに従価(価格に対して課税する方式)で一律5%という極めて低い水準に引き下げたことにある。
さらに、物価変動の恩恵を列強側が受けやすいよう、多くの品目で実質的な従量税(重量や容量に対して定額を課す方式)へと改められた。また、開港場での自由な取引を阻害する幕府の統制や制限を撤廃することも盛り込まれ、日本の市場は列強の自由貿易体制へと完全に組み込まれることとなった。
国内産業への打撃と経済的従属
この極端な関税率の引き下げは、日本の経済に深刻な打撃をもたらした。わずか5%という極低関税により、産業革命を経て大量生産されていたイギリス製の安価な綿糸や綿織物が怒涛のように日本市場へと流入した。これにより、手作業に頼っていた日本の農村の家内手工業や伝統的な織物業は価格競争で全く太刀打ちできず、壊滅的な影響を受けた。
一方で、生糸や茶などの一次産品が大量に輸出されることとなり、日本は「安価な原料を輸出し、高付加価値の工業製品を輸入する」という、欧米列強に対する典型的な従属的経済構造を強いられることとなったのである。
明治政府の重荷と条約改正問題
改税約書によって生じた事実上の「関税自主権の喪失」は、幕府崩壊後に成立した明治政府にもそのまま引き継がれた。新政府にとって、富国強兵を目指し国内産業を保護・育成する「殖産興業」は最重要課題であったが、自国の判断で外国製品に関税をかけられないことは致命的な足かせとなった。さらに、関税収入を国家予算の柱にすることができず、農民に重い税負担を強いる地租改正に頼らざるを得ない一因ともなった。
そのため、関税自主権の回復は、領事裁判権(治外法権)の撤廃と並んで明治初期からの外交における最大の悲願となった。1899年(明治32年)の日米通商航海条約の発効による部分回復を経て、1911年(明治44年)に小村寿太郎外相のもとで完全な関税自主権回復が達成されるまで、日本は半世紀近くにわたる長く苦難に満ちた不平等条約改正交渉を強いられることになったのである。