ヒュースケン (ひゅーすけん)
【概説】
幕末に来日し、アメリカ初代総領事ハリスの通訳・書記官を務めたオランダ系アメリカ人。オランダ語が当時の公用外交言語であった日本において、日米修好通商条約などの締結交渉を実務面から支えた人物。しかし、尊王攘夷思想の高まりの中で過激派浪士の標的となり、江戸の赤羽橋付近で暗殺された。
ハリスの右腕としての外交的功績
ヘンリック・ヒュースケンはオランダのアムステルダムに生まれ、後にアメリカに移民して市民権を得た。1856年(安政3年)、駐日総領事として下田に着任するタウンゼント・ハリスにオランダ語通訳として雇われ、ともに入国した。当時の江戸幕府の「カピタン通詞(オランダ通詞)」は外国語の中でオランダ語を最も得意としていたため、ハリスと幕府との交渉において、オランダ語を母国語とし英語も堪能なヒュースケンの存在は不可欠であった。
ヒュースケンはハリスの右腕として、1858年(安政5年)の日米修好通商条約の締結に向けた困難な交渉を支えた。さらにその堪能な語学力を請われ、アメリカだけでなくイギリスやプロイセン(ドイツ)などが幕府と条約交渉を行う際にも通訳として協力し、日本の開国期における外交交渉で極めて重要な役割を果たした。また、彼が書き残した『ヒュースケン日本日記』は、当時の日本の風俗や社会情勢、緊迫する外交交渉の舞台裏を伝える貴重な歴史的史料となっている。
ヒュースケン襲撃事件とその歴史的影響
開国にともない日本国内で尊王攘夷運動が激化すると、外国人に対する襲撃事件が多発するようになった。ヒュースケンも身の危険を感じていたが、1860年12月5日(西暦では1861年1月15日)、プロイセン使節団との交渉を終え、江戸麻布の宿舎(中の寺・善福寺)へ騎馬で帰る途中、芝赤羽橋付近において薩摩藩の攘夷派浪士(伊牟田尚平ら)に襲撃された。腹部を深く斬られたヒュースケンは、翌日に死亡した。
この事件は、駐日外国使節団に大きな衝撃と恐怖を与えた。イギリス公使オールコックをはじめとする各国公使は、幕府の警備能力の低さと不誠実な態度に抗議し、一時的に江戸を退去して横浜へ避難する強硬姿勢をとった。これに対し、ハリスのみは幕府を信頼して江戸に留まり、他国と同調しなかったため、共同歩調をとろうとした各国の結束は乱れた。ヒュースケンの暗殺は、幕末の対外危機の深刻化と、幕府の権威失墜を如実に示す象徴的な事件となった。