駿府 (すんぷ)
【概説】
駿河国(現在の静岡県静岡市)の中心に位置する都市。徳川家康が将軍職を退いた後、大御所として隠居生活を送りながら実権を握り続けた政治的拠点。江戸の2代将軍・徳川秀忠との間で「二元政治」が行われ、一時期は江戸を凌ぐ事実上の首都として機能した。
今川氏の城下町から徳川の拠点へ
駿府は、中世においては駿河守護である今川氏の城下町として栄えた歴史を持つ。今川氏の庇護のもとで京都の公家文化が流入し、東国における文化の中心地として「戦国三大文化都市」の一つに数えられるほどの隆盛を極めた。少年期の徳川家康が人質として過ごした地でもあり、家康にとって極めて馴染みの深い土地であった。
今川氏の滅亡後、武田氏の支配を経て、本能寺の変ののちに領有した家康が駿府城を築城し、領国支配の拠点とした。その後、豊臣秀吉の命による関東移封によって家康は一度駿府を離れるが、関ヶ原の戦いを経て天下人となった家康は、再びこの地を自身の政治的拠点として選択することとなる。
大御所政治と江戸・駿府の「二元政治」
慶長10年(1605年)、家康は将軍職を息子の徳川秀忠に譲った。これは徳川家が将軍職を世襲していくという強い意志を天下に示すための政略であった。しかし、家康は引退したわけではなく、慶長12年(1607年)に駿府城へ移り住み、「大御所」として実質的な最高権力を握り続けた。
これにより、江戸の将軍秀忠が日常的な政務や関東地方の領国支配を担当し、駿府の大御所家康が外交、キリシタン政策、朝廷・寺社対策、大名統制などの国家的な基本方針を決定するという「二元政治」(大御所政治)が展開された。駿府城下には、本多正純ら家康の側近(駿府年寄など)が集まり、事実上の幕府の中枢として機能した。特に朱印船貿易の推進や、イギリス・オランダといったヨーロッパ諸国との外交交渉の多くは駿府で行われ、当時の日本における事実上の政治・外交の中心地であった。