尊王攘夷論 (そんのうじょういろん)
【概説】
「天皇を尊び(尊王)、外国勢力を打ち払う(攘夷)」という2つの思想が結びつき、幕末の倒幕運動の原動力となった政治思想。江戸時代中期から後期にかけて国学や水戸学を背景に醸成され、ペリー来航による外的危機のなかで倒幕への強力なスローガンへと発展した。
「尊王」と「攘夷」の思想的背景
もともと「尊王」と「攘夷」は、それぞれ別個に発展した概念である。「尊王論」は、天皇を絶対的な君主として尊ぶ思想であり、江戸時代中期以降の本居宣長らによる国学の発展や、『大日本史』編纂を通じて形成された水戸学(特に後期水戸学)によって体系化された。一方、「攘夷論」は、中国の華夷思想に由来し、野蛮な外敵(夷狄)を打ち払って自国の独立と尊厳を守るという排外的な思想である。
18世紀後半から19世紀にかけて、ロシアやイギリスなどの異国船が日本近海に頻繁に出没するようになると、国防への強い危機感から攘夷論が台頭した。とくに水戸藩の藤田東湖や会沢正志斎らは、著書『新論』などでこの二つの思想を結びつけ、天皇を中心に国難にあたるべきだという初期の尊王攘夷論を提唱した。
ペリー来航と急進的な政治運動化
1853年のペリー来航とそれに続く開国は、尊王攘夷論を単なる学問的理念から現実の過激な政治運動へと変貌させた。江戸幕府が大老・井伊直弼のもと、朝廷(孝明天皇)の勅許を得ないまま1858年に日米修好通商条約などの安政の五カ国条約を調印すると、「夷狄」に屈し、あろうことか天皇の権威をも無視した幕府への反発が全国的に沸き起こった。
これに対し幕府は安政の大獄で反対派を厳しく弾圧したが、1860年の桜田門外の変で井伊が暗殺されると幕府の権威は失墜する。長州藩の吉田松陰が主宰した松下村塾の出身者や、全国から脱藩した志士たちによって、尊王攘夷運動は天誅(暗殺)などのテロルを伴う急進的な反幕府運動へと過熱していった。
攘夷の実行と限界
朝廷の強い圧力を受けた幕府は、1863年に諸藩に対して「攘夷決行」を命じ、尊王攘夷派の中心であった長州藩は下関海峡で外国船への砲撃に踏み切った。しかし、同年の薩英戦争や、翌1864年の四国艦隊下関砲撃事件において、薩摩藩や長州藩は欧米列強の圧倒的な軍事力と技術力の差を痛感することになる。
自国との絶望的なまでの国力差を見せつけられたこれらの敗北は、刀や旧式の大砲による武力的な「攘夷」が現実的には不可能であるという厳しい事実を、運動の最前線にいた志士たちに突きつけた。
倒幕運動への昇華と歴史的意義
無謀な攘夷の不可能を悟った薩摩藩や長州藩の指導者たち(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作ら)は、ここにきて方針を大きく転換する。列強の脅威に対抗しうる強力な近代国家を建設するためには、もはや弱体化した幕府を倒し、天皇を中心とした強力な中央集権国家を樹立するしかないという尊王倒幕(討幕)論へと発展したのである。
その後、1866年の薩長同盟を経て、王政復古の大号令、戊辰戦争へと至る歴史の奔流が生まれた。尊王攘夷論は、文字通りに「外国を打ち払う」という当初の目的こそ果たせなかったものの、日本人のナショナリズムを喚起して旧来の幕藩体制を解体し、明治維新という日本の近代化を推し進めるための最大の原動力となった点で、日本史上極めて重要な役割を果たした政治思想である。