功山寺 (こうざんじ)
【概説】
山口県下関市長府に位置する、鎌倉時代末期に創建された曹洞宗の寺院。幕末の1864(元治元)年、高杉晋作が奇兵隊などを率いて挙兵し、藩政の実権を握っていた俗論党を打倒して長州藩の藩論を倒幕へと転換させる契機となった歴史的舞台である。
「功山寺挙兵」の歴史的背景と五卿の存在
1864(元治元)年の長州藩は、京都での禁門の変(蛤御門の変)での敗北に続き、四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)で欧米列強に惨敗するなど、かつてない危機に瀕していた。この状況下で幕府による第一次長州征討が迫ると、藩内では幕府への恭順を唱える保守派(俗論党)が主導権を握り、それまでの改革派(正義派)を粛清・排除していった。また、前年の八月十八日の政変で京都を追われ、長州へと亡命していた三条実美ら五卿は、俗論党によって他藩へ移されることが決定し、その一時的な滞在先として功山寺が使われていた。功山寺は、藩の運命を左右する政治的緊張が極限に達した場所であった。
高杉晋作の「回天義挙」と藩政奪還の展開
このような藩の降伏姿勢に危機感を募らせた高杉晋作は、1864年12月15日(旧暦)、功山寺において決起した。これが日本史において「回天義挙」と呼ばれる功山寺挙兵である。晋作は、自ら創設した奇兵隊の本隊が慎重姿勢を崩さぬなか、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊や石川小五郎率いる遊撃隊など、わずか80人ほどの軍勢を率いて挙兵を強行した。晋作らはまず下関の伊崎会所を襲撃して軍資金を確保し、これをきっかけに各地の諸隊が呼応して合流した。その後の絵堂の戦いなどで俗論党の政府軍を撃破したことにより、長州藩は再び正義派が政権を奪還し、藩論を「武備恭順(武装して幕府に対抗する)」へと統一、のちの薩長同盟や倒幕運動へと突き進むこととなった。
長府毛利家の菩提寺としての由緒と国宝の仏殿
功山寺は幕末の政変の舞台として有名であるが、寺院自体の歴史的・文化的価値も極めて高い。1327(嘉暦2)年に臨済宗の「長福寺」として創建され、室町時代には大内氏の庇護を受けた。江戸時代に入ると、毛利輝元の従弟である毛利秀元が長府藩を創設した際、長府毛利家の菩提寺として再興され、後に曹洞宗に改められた。さらに、秀元の法名「功山寺殿」にちなんで現在の寺名へと改称されている。境内にある仏殿は、鎌倉時代末期の典型的な禅宗様(唐様)建築の様式を今日に伝える貴重な遺構であり、その建築美から国宝に指定されている。