静岡事件
1886年
【概説】
1886年(明治19年)に静岡県で発覚した、旧自由党員らによる政府高官暗殺未遂事件。過激化した自由民権運動の地方激化事件における、実質的な最後期の事例。
自由民権運動の激化と静岡の動向
1880年代半ばの日本は、松方デフレによる農村の窮乏と、政府による民権派への弾圧(集会条例の改正など)を背景に、過激化した民権派による武力蜂起(激化事件)が相次いでいた。1884年(明治17年)の自由党解党後も各地で抵抗運動は続き、静岡県でも旧自由党員の清水昇らが中心となり、「大日本労使進歩党」を組織して薩長藩閥政府の打倒を画策するようになった。
事件の計画と挫折、そして運動の転換
清水らは、時の内閣総理大臣・伊藤博文や外務大臣・井上馨らの政府高官を暗殺し、天皇への直訴を行う計画を立てた。そのための活動資金を得ようと、横浜の富豪や関門を襲撃する強盗計画を進めていたが、実行直前の1886年(明治19年)6月に警察に察知され、清水ら関係者多数が事前に検挙された。この静岡事件の鎮圧をもって一連のテロや武力蜂起による激化事件は収束に向かい、民権運動は翌1887年(明治20年)の大同団結運動に代表されるような、国会開設を見据えた合法的な政党政治・議会闘争へと路線をシフトしていくこととなった。