神道は祭天の古俗

久米邦武が発表し、「神道は宗教ではなく、古代からの天を祀る古い風習に過ぎない」と論じたため、神道家の激しい攻撃を受けた論文の名称は何か?
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重要度
★★

神道は祭天の古俗 (しんとうはさいてんのこぞく)

1891年

【概説】
1891(明治24)年に歴史学者の久米邦武が発表した、神道の本質に関する学術論文。神道は体系的な教義を持つ宗教ではなく、古代アジアに共通する天や自然を祀る素朴な慣習(古俗)に過ぎないと主張した。この論文は当時の神道家や右翼から激しい非難を浴び、翌年の久米の帝国大学教授辞職(久米邦武筆禍事件)へと発展した。

実証主義歴史学と論文の論理

明治維新後、政府は近代的な歴史編纂を行うため、帝国大学(後の東京帝国大学)に臨時編年史編纂掛を設置した。ここを中心に、重野安繹や久米邦武らは、客観的な史料批判に基づく実証主義歴史学を推進していた。久米が1891年に機関誌『史誌』に発表した「神道は祭天の古俗」は、そうした科学的アプローチを神道研究に適用したものであった。

久米は本論文において、神道にはキリスト教や仏教のような創始者もなければ、組織化された教義や道徳論も存在しないと指摘した。その上で、神道の本質は中国の周代における「敬天」や、アジアの他地域に見られる原始的な自然崇拝(シャマニズムなど)と同系統の、天や自然神を祀る古代の風習(祭天の古俗)に過ぎないと論じた。これは神道を特別な宗教として神聖視せず、比較宗教・比較文化の視点から相対化する画期的な研究成果であった。

「久米邦武筆禍事件」と国家神道への衝撃

論文の発表当初は学術的な議論にとどまっていたが、1892年に入ると保守派の雑誌『厳島月報』やキリスト教系のメディアがこれを転載したことで事態は一変した。神道を国家の精神的支柱として確立しようとしていた神職や保守派の政治運動家(右翼)らは、久米の論を「皇祖を侮辱し、国体を基礎から揺るがす不敬の説」として激しく弾圧した。

世論の糾弾を受けた明治政府は、文部大臣大木喬任らの主導により、久米に対して帝国大学教授および修史事業の職を辞するよう圧力をかけた。結果として久米は非自発的な辞職に追い込まれ、帝国大学の修史事業自体も一時中断を余儀なくされた。この一連の出来事は久米邦武筆禍事件と呼ばれ、近代日本における言論の自由および学問の自由に対する最初期の大規模な国家権力による介入事例となった。

「神社非宗教説」とのねじれと歴史的意義

本事件の歴史的な皮肉は、当時の明治政府が「神道(神社)は宗教ではない」という、いわゆる神社非宗教説を公式の解釈として整えつつあった時期に起きた点にある。大日本帝国憲法で「信教の自由」を認めていた政府は、キリスト教徒らに対して神社参拝を義務付けるため、「神社参拝は国家の儀礼であり、宗教行為ではない」と言い逃れる必要があった。すなわち、政府も久米と同じく「神道=非宗教」と考えていたのである。

しかし、政府が主張した「非宗教」とは「宗教を超越した国家最高の崇敬対象(国家神道)」という意味であったのに対し、久米の主張した「非宗教」は「教義を持たない未開で幼稚な古代の慣習」という意味であった。歴史学の客観的分析によって天皇の神聖な権威が相対化されることを、形成期の天皇制国家は許容できなかったのである。本事件は、明治政府が近代化と同時に、国家神道という強力なイデオロギー支配を完成させていく過渡期において発生した象徴的な弾圧事件であった。

神武天皇の歴史学 (講談社選書メチエ 794)

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久米邦武文書 2

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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