桂小五郎(木戸孝允) (かつらこごろう・きどたかよし)
【概説】
幕末から明治初期にかけて活躍した長州藩出身の武士、政治家。尊王攘夷運動の指導者として薩長同盟の締結に尽力し、明治維新後は新政府の中枢を担って「維新の三傑」の一人に数えられた。旧名は桂小五郎、維新後に木戸孝允と改名した。
長州藩における台頭と尊王攘夷運動
長門国萩に藩医の子として生まれ、桂家の養子となる。江戸に出て神道無念流の剣術を学び、剣豪として名を馳せる一方で、江川英龍らから西洋兵学も吸収した。また、同郷の吉田松陰に師事して強い尊王攘夷思想を抱くようになり、やがて長州藩における尊攘派の中心人物として台頭した。
1863年の八月十八日の政変や翌年の池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)によって長州藩が中央政界から追放され窮地に陥る中、彼は幾度も死線を彷徨いながらも変装を駆使して生き延び、「逃げの小五郎」という異名をとった。彼が命脈を保ったことは、その後の長州藩の再起、ひいては倒幕運動において極めて重要な意味を持った。
薩長同盟の締結と倒幕への道
幕府による第一次長州征討後、藩内では一時保守派(俗論派)が実権を握ったが、高杉晋作らの功山寺挙兵によって再び倒幕派が主導権を奪還する。この頃から桂小五郎は、長州藩の事実上の最高指導者として藩政を牽引した。
幕府による再度の征伐(第二次長州征討)が迫る中、孤立無援の長州藩を救うため、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介を受けた。そして1866年(慶応2年)、かつて不倶戴天の敵であった薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと京都で会談し、薩長同盟(薩長密約)を締結した。これにより薩摩名義での西洋武器調達が可能となり、同年の第二次長州征討(四境戦争)において幕府軍を圧倒。幕府の権威は失墜し、倒幕への決定的な流れが形成された。
明治新政府での活躍と急進的改革
明治維新後、名を木戸孝允と改め、新政府の総裁局顧問や参議などの要職を歴任した。西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と称される。
新政府の基本方針を示した1868年の五箇条の御誓文では、福岡孝弟の起草案に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」などの修正を加え、近代国家としての方向性を決定づけた。また、天皇を中心とする強力な中央集権国家の建設を急務と考え、大久保らと連携して1869年の版籍奉還、および1871年の廃藩置県という大改革を主導した。これは何百年も続いた封建制度を解体し、近代日本の基礎を築く上で最も重要な政策であった。
欧米視察と晩年の葛藤
1871年(明治4年)から、岩倉使節団の副使として欧米諸国を視察した。西洋の近代文明の発展状況に圧倒されるとともに、日本の近代化の遅れを痛感し、国力充実と憲法制定の必要性を強く認識するようになった。
帰国後は内治優先を強く主張し、1873年(明治6年)の明治六年政変においては、大久保利通らとともに西郷隆盛や板垣退助らの征韓論を退けた。しかし、その後の台湾出兵に対しては「内治優先」の信念から強硬に反対して一時政府を離れる(下野する)など、大久保の独裁的な政権運営との意見対立に苦悩した。
漸進的な立憲政体の樹立を模索する一方で持病を悪化させ、1877年(明治10年)、かつての盟友・西郷隆盛が起こした西南戦争の最中に、「西郷、もういいかげんにしないか」と彼を案じる言葉を残して京都で病死した。