近江屋事件 (おうみやじけん)
【概説】
幕末の1867年11月(慶応3年10月)、土佐藩出身の志士である坂本龍馬と中岡慎太郎が、京都の醤油商・近江屋において暗殺された事件。
大政奉還直後の緊迫した政治的背景
1867年10月、前土佐藩主・山内豊信(容堂)らの建白により、将軍・徳川慶喜は大政奉還を断行した。これにより260年余り続いた江戸幕府は実質的に終焉を迎えたが、その後の新国家の主導権をめぐって朝廷、旧幕府勢力、薩長両藩などの思惑が複雑に絡み合っていた。この平和裏な政権交代劇のシナリオ(「船中八策」など)を描いたのが坂本龍馬であった。龍馬は、旧幕府勢力を排除せず、徳川氏をも含めた諸藩の大名による議会政治(公議政体論)を志向していた。しかし、これは武力によって徹底的に幕府を打倒しようとする薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らの急進派、およびそれに対抗する幕府信奉派の双方から警戒される立場でもあった。龍馬と同じく土佐藩出身の中岡慎太郎(陸援隊隊長)もまた、倒幕派と合流しつつ新政権のあり方を模索し、龍馬とともに京都で活動していた。
事件の発生と真犯人の比定
11月15日の夜、京都河原町の近江屋2階に滞在していた龍馬と中岡を、数人の刺客が突如襲撃した。龍馬は額などを深く斬られてほぼ即死、中岡も瀕死の重傷を負い、2日後に息を引き取った。新国家の構想を描いた指導者2人を同時に失ったことは、土佐藩のみならず志士側に大きな衝撃を与えた。この暗殺については、長年にわたり新選組や薩摩藩による陰謀説など様々な憶測が飛び交ったが、維新後に元京都見廻組隊士の今井信郎らが自供したことにより、幕府の治安維持組織である京都見廻組(佐々木只三郎ら)が暗殺の実行犯であったことが定説となっている。この事件により、平和的な政権移行を望む穏健派の声は弱まり、歴史は一気に武力衝突(戊辰戦争)へと傾斜していくこととなった。