世直し大明神
1784年
【概説】
江戸時代後期の1784年、老中田沼意次の嫡男である田沼意知を暗殺した旗本・佐野政言に対する民衆からの賞賛の呼称。天明の大飢饉や物価高騰に苦しんでいた江戸の庶民が、閉塞感のある田沼政治に一矢報いた佐野を神格化したものである。
事件の背景と田沼政治への民衆の怒り
1784年(天明4年)3月、江戸城内において新番士の佐野政言が、若年寄の田沼意知に斬りつけ、これを死亡させる事件が発生した。犯行に及んだ佐野は即座に切腹を命じられたが、この事件は当時の社会に大きな衝撃を与えた。当時、日本社会は天明の大飢饉の最中にあり、浅間山の大噴火などの自然災害も重なって米価をはじめとする物価が暴騰し、庶民の生活は困窮を極めていた。こうした中、重商主義的な改革を推し進め、賄賂政治の温床とも目されていた田沼意次・意知父子に対する民衆の恨みと怒りは頂点に達していた。
「世直し」への期待と神格化の歴史的意義
佐野政言による意知暗殺は、苦しい生活を強いられていた江戸の民衆から、悪政への天罰、あるいは社会を救う救世主の挙行として熱狂的に受け止められた。民衆は佐野を「世直し大明神」と呼び習わし、彼の遺体が葬られた江戸浅草の徳源寺には、身分を問わず膨大な数の人々が参拝に押し寄せた。墓前には賽銭や供え物が山をなし、田沼政治の風刺や佐野を称える落首が市中にあふれた。この現象は、単なる一テロリストへの同情にとどまらず、当時の民衆が抱いていた社会変革への強烈な願望(世直し思想)の現れであり、のちの天明の打ちこわしや、幕末期の世直し一揆へとつながる民衆エネルギーの先駆的な表出であったといえる。