ゴローウニン
【概説】
文化露寇による日露緊張期に活躍したロシア海軍の軍人。軍艦ディアナ号の艦長として千島列島の測量中、国後島で幕府役人によって捕縛・監禁された。彼の逮捕を発端とする「ゴローウニン事件」は、のちに淡路の商人・高田屋嘉兵衛の仲介によって平和的に解決され、その後の日露関係の融和に大きな足跡を残した。
事件の背景と国後島での捕縛
19世紀初頭、極東への進出を進めるロシア帝国と、鎖国体制を維持しようとする江戸幕府との間には緊迫した空気が漂っていた。とりわけ1806年から1807年にかけて、ロシアの使節ニコライ・レザノフの部下であったフヴォストフらが、樺太や択捉島の日本拠点を襲撃する文化露寇(フヴォストフ事件)を引き起こした。これにより、幕府はロシアに対する警戒を極限まで強め、東北諸藩に蝦夷地の警備を命じていた。
このような緊張下において、1811(文化8)年、ロシア政府の命により千島列島の測量を行っていたディアナ号艦長ワシリー・ゴローウニンは、水や食料の補給のために国後島に上陸した。しかし、フヴォストフの暴挙に憤激していた松前藩の役人と南部藩の警備兵は、ゴローウニンら一行を罠にかけて捕縛した。これが日本史におけるゴローウニン事件の始まりである。ゴローウニンらは箱館、のちに松前へと護送され、厳しい取り調べを受けながら監禁生活を送ることとなった。
高田屋嘉兵衛の拿捕と事件の解決
翌1812年、ディアナ号の副艦長であったピョートル・リコルドは、ゴローウニンの奪還・釈放を求めて再び国後島近海へ来航した。そこでリコルドは、幕府の御雇船頭として蝦夷地交易に従事していた淡路出身の豪商、高田屋嘉兵衛の船を拿捕し、嘉兵衛を人質としてロシアの領有するカムチャツカへと連行した。
この拿捕は一見、事態を悪化させる暴挙に見えたが、結果として事件解決の突破口となった。嘉兵衛はロシアの地で人道的かつ厚遇に扱われ、リコルドらとの間に深い信頼関係を築き上げた。嘉兵衛は日露双方の誤解を解くため、かつて幕府を襲撃したフヴォストフの行為はロシア皇帝の意志によるものではないという公式な「釈明書」をロシア側から幕府へ提出するよう提案した。1813年、リコルドがこの釈明書を携えて再度来航し、嘉兵衛の仲介のもとで幕府との交渉が行われた結果、ゴローウニンは約2年3ヶ月ぶりに釈放され、無事に帰国することができた。
抑留生活の副産物と『日本幽囚記』
ゴローウニンの監禁生活は過酷なものであったが、日露双方の文化交流という面において極めて重要な歴史的副産物をもたらした。抑留中、ゴローウニンは幕府の命を受けた科学者や通詞たちから尋問を受ける一方で、彼らにロシアの情勢や科学技術を教えた。なかでも、北方の探検家として知られる間宮林蔵や、ロシアに漂流した経験を持つ中川五郎治らが彼と接触し、最新の海外知識を吸収している。
帰国後、ゴローウニンは日本での体験を克明に記録した『日本幽囚記』(原題:『日本での抑留、1811、1812、1813年に関する手記』)を執筆・出版した。この著作は当時のヨーロッパでベストセラーとなり、英・仏・独など各国語に翻訳された。当時の日本社会の制度、日本人の識字率の高さや道徳性、知的探求心が客観的かつ好意的に描かれており、欧米諸国における日本観の形成に多大な影響を与えた歴史的名著として今なお高く評価されている。