ゴローウニン事件 (ごろーうにんじけん)
【概説】
江戸時代後期の1811年、千島列島を測量中であったロシア軍艦艦長ゴローウニンが国後島で幕府役人に捕縛された事件。翌年、ロシア側が報復として淡路出身の商人・高田屋嘉兵衛を抑留したが、嘉兵衛の尽力と民間外交により1813年に両者の釈放と人質交換が実現し、日露間の軍事衝突が回避された。
緊迫する北方の情勢と日露の衝突
18世紀末から19世紀初頭にかけて、ロシアは毛皮交易の拡大などを目的に日本へのアプローチを強めていた。1804年には使節レザノフが長崎に来航して通商を求めたが、江戸幕府は鎖国体制を理由にこれを拒絶した。この対応に憤慨したレザノフの部下らは、1806年から1807年にかけて樺太や択捉島などの日本側の拠点を襲撃する「文化露寇(フヴォストフ事件)」を引き起こした。これにより、幕府は蝦夷地(現在の北海道や樺太、千島列島など)を直轄領化し、東北諸藩に警備を命じるなど、北方における日露間の緊張は極限に達していた。
ゴローウニン捕縛と高田屋嘉兵衛の抑留
このような一触即発の状況下にあった1811(文化8)年、ロシア海軍の航海士であり軍艦ディアナ号の艦長であったゴローウニン(ゴローニン)が、千島列島の測量中に国後島に上陸した際、南部藩の警備兵によって捕縛された。ゴローウニンらは箱館(のちに松前)に護送され、厳しい尋問を受けながらも幽囚生活を送ることとなった。
翌1812年、ゴローウニンの奪還と安否確認のために再び来航したディアナ号の副長リコルドは、対話の糸口を探るなかで、国後島付近を航行中であった幕府御用達の商人・高田屋嘉兵衛を捕らえ、カムチャツカへと連行した。こうして、国家間の対立に民間商人が巻き込まれる形で事態はさらに複雑化した。
民間外交による解決と歴史的意義
人質となった高田屋嘉兵衛は、カムチャツカでの抑留生活の中でロシア語を学び、ロシア側に悪意がないこと、そして文化露寇がロシア皇帝の勅命ではなく部下の暴走であったことを理解した。嘉兵衛はリコルドに対して、幕府を納得させるためにはロシア公式の「謝罪状(釈明書)」が必要であると説き、日露の架け橋となることを決意した。
1813年、嘉兵衛を伴って再来航したリコルドが、先の襲撃事件が皇帝の命によるものではないとする釈明書を幕府に提出した。嘉兵衛の命がけの調停もあり、幕府はこれを正式に受理。ゴローウニンらは無事に釈放され、引き換えに嘉兵衛も日本側に返還された。この一連の事件の解決により、日露間の緊張は一時的に緩和されることとなった。
帰国したゴローウニンが幽囚体験をまとめた著書『日本幽囚記』は、ヨーロッパでベストセラーとなり、当時の日本人の知的水準や風俗を西欧社会に広く紹介する貴重な文献となった。また、一商人にすぎない高田屋嘉兵衛の理性的かつ大胆な行動は、日露国交史における民間外交の金字塔として、今日でも高く評価されている。