尚歯会 (しょうしかい)
【概説】
江戸時代後期の天保期に、渡辺崋山や高野長英らを中心に結成された知識人の学術・言論結社。蘭学や海外事情の研究を通じて、飢饉や国防といった内憂外患の国難に対処するための議論を展開したサロン的集団。1839年の「蛮社の獄」によって幕府保守派から弾圧を受け、事実上の解散へと追い込まれた。
多士済々の知識人が集った言論サロンの誕生
尚歯会は1832(天保3)年頃、三河国田原藩家老の渡辺崋山や、蘭学者の高野長英、小関三英、幡崎鼎らを中心に結成された。「尚歯」とは中国の古典に由来し「高齢者を敬う」という意味であるが、これは幕府の警戒を避けるための隠れ蓑であり、実態は当時の最先端の海外情報や社会・経済政策を議論する学術・言論サロンであった。
その最大の特徴は、参加者の身分や専門分野の多様性にある。蘭学者だけでなく、農学者や儒学者、さらには江川太郎左衛門(英龍)や川路聖謨、羽倉簡堂といった進歩的な幕臣・地方官までもが身分を超えて集った。彼らは天保の飢饉が深刻化するなかで、ジャガイモやソバの栽培による飢饉対策を講じた『救荒二物』を翻訳・刊行するなど、実学を通じた経世済民(社会救済)を実践しようとした。
「対外危機」への警鐘と「蛮社の獄」による弾圧
1830年代、日本近海には異国船が出没し、清国がアヘン戦争へと向かうなど、東アジアの国際情勢は緊迫の度を増していた。尚歯会のメンバーは、長崎経由や漂流民からもたらされる海外情報を分析し、日本の国防体制や幕府の鎖国政策(異国船打払令)に対して強い危機感を抱くようになった。
1837(天保8)年の米船モリソン号事件を契機に、崋山は『慎機論』を、長英は『戊戌夢物語』を執筆し、幕府の頑迷な排外策を批判し、開国と通商の必要性を訴えた。しかし、このような進歩的な言論は、幕府の鎖国体制を揺るがすものとして警戒された。1839(天保10)年、保守派の目付である鳥居耀蔵らによって尚歯会の面々は捕らえられ、崋山は蟄居(のちに自殺)、長英は伝馬町牢屋敷へ投獄されるという「蛮社の獄」が勃発した。これにより、尚歯会は事実上の壊滅を余儀なくされた。
尚歯会が日本近代化に与えた歴史的意義
尚歯会の活動は短命に終わったが、その歴史的意義は極めて大きい。それまでの蘭学が医学や天文学といった自然科学の「技術的受容」に留まっていたのに対し、尚歯会は西洋の知識を日本の政治・社会改革に適用しようとする「経世実用」の学問へと脱皮させた。この思想的転換は、幕末から明治維新へと至る変革の伏線となった。
また、弾圧を免れた江川英龍や川路聖謨らは、その後の天保の改革や幕末の政局において、お台場(品川砲台)の築造や反射炉の建設、ロシア使節プチャーチンとの交渉など、実務面で国防と外交の最前線に立ち続けた。尚歯会で培われた知見とネットワークは、幕末の動乱期における国防・外交政策のソフトウエアとして息づき続けたのである。