渡辺崋山 (わたなべかざん)
【概説】
江戸時代後期の三河国田原藩家老であり、優れた洋学者・文人画家。モリソン号事件に際して『慎機論』を著し、幕府の対外政策を批判したことで蛮社の獄で弾圧され、自刃に追い込まれた悲劇の知識人である。
田原藩家老としての藩政改革と蘭学への接近
渡辺崋山は1793年、三河国田原藩(現在の愛知県田原市)の江戸藩邸で生まれた。家格は上級藩士であったものの藩財政の窮乏から生活は極めて貧しく、崋山は若年期から生活の糧を得るために絵筆を握りながら学問に励んだ。やがてその非凡な才能と実直な人柄が認められて藩の要職に就き、1832年には家老に昇進する。家老としての崋山は、農学者・大蔵永常を招聘して特産品の栽培を奨励したり、飢饉に備えて義倉(報民倉)を設置するなどの藩政改革に奔走した。その結果、全国を襲った天保の大飢饉に際しても、田原藩からは一人の餓死者も出さなかったと伝えられている。
同時に、三河湾に面した田原藩の立地から海防問題に強い関心を抱き、西洋の最新事情や軍事技術を学ぶ必要性を痛感した。崋山自身はオランダ語を読めなかったが、高野長英や小関三英ら蘭学者を後援し、江川英龍などの開明的な幕臣も交えた知識人のサークル「尚歯会(しょうしかい)」を結成して、西洋の学術や海外事情の研究を精力的に進めた。
西洋画法を取り入れた独自の写実主義
崋山は歴史に名を残す政治家・思想家であると同時に、江戸時代を代表する画家の一人でもある。谷文晁に師事して伝統的な南画(文人画)を学んだ彼は、やがて蘭学研究を通じて触れた西洋画の遠近法や陰影法(明暗法)に感銘を受け、それらを巧みに日本画に取り入れていった。
対象の内面をも描き出すかのような徹底した写実性がその特徴であり、蘭学者の鷹見泉石を描いた国宝『鷹見泉石像』や、市井の風俗を生き生きと描いた『一掃百態』などの傑作を残した。西洋の合理的な観察眼と東洋の精神性を融合させた崋山の画業は、日本美術史においても極めて高い評価を与えられている。
『慎機論』の執筆とモリソン号事件
1837年、日本人漂流民の送還と通商を求めて来航したアメリカの商船に対し、幕府が異国船打払令(無二念打払令)に基づいて砲撃を加えるモリソン号事件が発生した。翌年、この事実を知った崋山と高野長英は、世界情勢から大きく立ち遅れた幕府の無知と、硬直化した鎖国政策に対して強烈な危機感を抱いた。
長英が『戊戌夢物語』を著して匿名で打払政策を批判したのに対し、崋山は『慎機論』を執筆し、西洋列強のアジア進出の脅威を説いて幕府の無謀な海防政策を痛烈に批判した。ただし、崋山は幕藩体制の転覆を企図したわけではなく、あくまで憂国の情から体制内での政策転換を求めたものであり、『慎機論』も公刊されることなく彼の書斎に秘蔵されていた。
蛮社の獄と悲劇的な最期
しかし、崋山らの開明的なグループは、保守的な幕府権力から危険視されるようになっていた。1839年、目付の鳥居耀蔵らは、崋山らが無人島(小笠原諸島)への渡海を計画しているという架空の嫌疑をでっち上げ、彼らを一斉に逮捕した。これが蛮社の獄である。家宅捜索によって未発表の『慎機論』が発見され、そこに記された幕政批判が問題視されることとなった。
崋山は死罪こそ免れたものの、田原での国元蟄居(永蟄居)という重い処分を受けた。蟄居中の生活は困窮を極め、門人たちが同情して崋山の絵を売り、その利益で彼を助けようとした。しかし、罪人である崋山が絵を売って生活していることが幕府で問題視されているという噂が広まると、藩や主君に累が及ぶことを恐れた崋山は、1841年に「不忠不孝渡辺登(のぼり)」との遺書を残して自刃を遂げた。開国という歴史の必然を見通す卓越した世界認識を持ちながらも、硬直化した封建体制の壁に阻まれ命を落とした先覚者の死は、幕末維新期に向けた時代の転換の苦難を象徴する出来事である。