奉書船 (ほうしょせん)
【概説】
江戸時代初期の貿易統制策に伴い、将軍の朱印状に加えて、老中が発給する許可証(老中奉書)の携帯が義務付けられた海外渡航船。キリスト教禁教や大名統制の強化を背景に1631年に制度化されたが、1635年の日本人の海外渡航全面禁止によってわずかな期間で姿を消した。
朱印船貿易からの移行と制度の成立
徳川家康の時代に始まった朱印船貿易は、将軍が発行する「朱印状」を携行することで渡航先での保護を保障される公式な貿易船であった。しかし、幕府の権力基盤が安定するにつれて、キリスト教の布教に対する警戒感が高まり、また西国大名や有力商人が貿易によって巨額の富と軍事力を蓄積することを幕府が危惧するようになった。そのため、貿易のさらなる統制強化が幕府の急務となった。
寛永8年(1631)、3代将軍・徳川家光の治世において、従来の朱印状に加えて、老中が連署して発給する「老中奉書」を所持しない船の海外渡航が禁止された。これが奉書船制度の始まりである。その後、寛永10年(1633)に発布されたいわゆる「第1次鎖国令」において、奉書船以外の海外渡航が明文で厳禁され、制度として本格的に確立した。
老中奉書の持つ意味と幕府の政治的意図
なぜ朱印状に加えて老中奉書が新たに必要とされたのか。最大の理由は、幕府が海外渡航の主体をより厳密に選別し、強力な統制下に置くためである。将軍の朱印状は一度発給されると継続的に有効とされる性質があったのに対し、老中奉書はその都度の航海に対して個別に発給される渡航許可証として機能した。この二重の許可制度により、密貿易の防止や、宣教師の潜入ルートの遮断が図られた。
また、老中奉書の発給対象は、角倉氏(京都)、末次氏(長崎)、末吉氏(平野・大坂)、茶屋氏(京都)など、幕府と密接に結びついた一部の特権的豪商に限定され、大名による海外貿易は事実上排除された。これは、莫大な貿易の利益を幕府の統制下に独占し、西国大名の経済的自立を防ぐという、幕藩体制確立期の政治的意図が強く反映された措置であった。
奉書船貿易の実態
奉書船は、東南アジア各地の日本町を拠点に、生糸、絹織物、鹿皮などを輸入し、日本の特産である銀、銅、硫黄などを輸出する中継貿易を担った。船の規模や構造は従来の朱印船と同様であり、中国のジャンク船に西洋式のガレオン船の帆走技術を取り入れた、和洋折衷の大型船が用いられた。
奉書船を運航できたのは幕府の厳しい審査を通過した限られた特権商人であったため、彼らは莫大な利益を独占することになった。この時期、日本人の海外進出は依然として活発に行われていたが、幕府の厳重な監視下にあったという点において、自由で拡張的な気風を持っていた初期の朱印船貿易時代とは、その性格を大きく異にしていた。
日本人の海外渡航禁止と歴史的意義
奉書船が活躍した時代は長くは続かなかった。キリスト教に対する幕府の警戒はその後も強まり続け、寛永12年(1635)の「第3次鎖国令」によって、日本人の海外渡航および在外日本人の帰国が全面的に禁止された。これに伴い、奉書船制度も開始からわずか数年で廃止されることとなった。
以降、日本の対外貿易は、幕府が厳格に直接管理する長崎でのオランダおよび中国(明・清)との交易のみに限定される、いわゆる「鎖国」体制(海禁政策)へと移行していく。奉書船は、朱印船貿易という対外的な膨張の時代から、幕府による完全な貿易・出入国管理体制への移行期という歴史の過渡期にのみ存在した、象徴的な制度であると言える。