日本人移民排斥運動 (にほんじんいみんはいせきうんどう)
【概説】
19世紀末から20世紀前半にかけて、アメリカ合衆国の西海岸地域を中心に発生した、日本人移民の定着や流入を拒絶・排除しようとする社会運動。日露戦争後の日本の東アジア台頭を警戒する「黄禍論」や、安価な労働力に対する白人労働者の反感を背景に激化し、最終的に日米関係の決定的な悪化を招く要因となった。
移民の増加と排斥運動の背景
1885年の官約移民開始以降、ハワイ経由、あるいは直接アメリカ本土へと渡る日本人移民が急増した。特に気候が温暖で農業に適したカリフォルニア州には多くの日本人が定着した。当初は1882年の「中国人排斥法」によって不足した労働力を補う存在として歓迎されたが、日本人が勤勉に働き、小作農から自作農へと自立して経済的成功を収め始めると、現地の白人農家や労働者との間に深刻な競合が生じるようになった。
さらに、1905年の日露戦争における日本の勝利は、欧米社会に東アジアの新興強国に対する脅威を抱かせることとなった。これにより、安価な労働力への反発という経済的要因に、人種的偏見である黄禍論(イエロー・ペリル)が結びつき、排斥運動は排他的なナショナリズムを帯びて組織化されていった。
日米間の外交摩擦と「紳士協定」
排斥運動が日米間の重大な外交問題へと発展した契機が、1906年に発生したサンフランシスコ学童分離問題である。同年の大地震を機に、市教育委員会が日本人学童を公立学校から隔離し、東洋人専用学校へ通わせる決定を下した。日本政府の強い抗議に対し、当時のセオドア・ルーズベルト大統領が調停に入り、学童隔離措置を撤回させる代わりに、日本からの新規移民を制限する交渉が行われた。
この結果、1907年から1908年にかけて日米紳士協定が結ばれた。これは日本政府が旅券(パスポート)の発行を自国で制限(自主規制)することにより、労働移民の渡米を事実上阻止する合意であった。これにより一時的に摩擦は緩和されるかに見えた。
排日土地法から「排日移民法」への到達
しかし、現地カリフォルニア州などでの排斥熱は冷めず、法的な制限措置が次々と講じられた。1913年には、帰化権を持たない外国人(実質的に日本人を指す)の土地所有を禁止する第一次カリフォルニア州土地法(排日土地法)が制定され、1920年にはさらに抜け道を塞ぐ第二次土地法が成立した。移民たちは子供の名義で土地を購入するなどの対抗策をとったが、生活基盤は大きく脅かされた。
排斥運動の最終的な到達点となったのが、1924年にアメリカ連邦議会で成立した「1924年移民法」(通称:排日移民法)である。この法律により、帰化不能外国人の移民が全面的に禁止され、日本人移民の道は完全に閉ざされることとなった。この徹底的な排除姿勢は、日本国内において激しい対米世論の反発と不信感を呼び起こし、のちの「協調外交」の破綻と、日米対立の泥沼化(太平洋戦争への道)を決定づける歴史的な転換点となった。