黒砂糖 (くろざとう)
【概説】
江戸時代に薩摩藩が支配下の奄美群島で生産させ、厳格な専売制を通じて藩財政を支えた主要な特産物。サトウキビの搾り汁を煮詰めて作られる、当時の国内市場で需要が高かった貴重な甘味料。藩による過酷な取り立ては現地の人々に「糖業地獄」と呼ばれる甚大な苦難をもたらした一方、薩摩藩が幕末に雄藩へと躍進する経済的基盤となった。
薩摩藩の奄美支配とサトウキビ栽培の普及
1609年、薩摩藩の島津氏は琉球王国に侵攻し、奄美群島(奄美大島・徳之島・喜界島など)を実質的な直轄領(蔵入地)とした。当初、これらの島々からは米による貢納が行われていたが、17世紀後半にサトウキビの栽培技術が導入されると、次第に砂糖の生産地へと変貌していった。当時の日本国内では、高級品である砂糖の需要が急速に高まっており、その多くを中国やオランダからの輸入に依存していたため、薩摩藩は国内生産による莫大な利益に着目したのである。
「糖業地獄」を生んだ砂糖総買入制度
18世紀中期、薩摩藩は財政難を克服するため、奄美群島における黒砂糖の専売制を本格化させた。1747年に導入された「砂糖総買入制度」により、島民が生産した黒砂糖はすべて藩が極めて安い価格で買い上げることが義務付けられた。さらに藩は、主食となる米や他作物の栽培を厳しく制限・禁止し、耕地の大半をサトウキビ畑にする「キビ一本植え」を強制した。
島民は自給自足の手段を奪われ、生活必需品や食料を藩から高値で買い取るしかなくなり、慢性的な飢餓に苦しむこととなった。砂糖の隠匿や私密売、製造過程での不正は死罪を含む極刑をもって処罰され、この過酷な搾取構造は現地の人々から「糖業地獄」と恐れられた。
天保の改革と幕末・明治維新への影響
江戸後期、500万両もの莫大な借金を抱えて破綻寸前であった薩摩藩は、天保期に家老の調所広郷(ずしょひろさと)を中心とする藩政改革(天保の改革)を断行した。この改革において最も重視されたのが、黒砂糖専売の徹底的な強化であった。調所は生産流通体制を再編し、大坂の特権商人との取引を通じて黒砂糖の価格操作を行い、莫大な専売利益を藩にもたらした。
この黒砂糖専売によって蓄積された膨大な資金(密貿易による利益を含む)は、藩の借金完済に留まらず、近代的な軍備拡張(洋式軍学校の設立や集成館事業による大砲鋳造など)の資金源となった。こうして蓄えられた経済力と軍事力が、のちに西郷隆盛や大久保利通らを擁する薩摩藩が、幕末の政局を主導し明治維新を成し遂げるための原動力となったのである。