おこぜ組 (おこぜぐみ)
【概説】
江戸時代後期の天保期、土佐藩の藩政改革において登用された中下級武士による改革派グループ。馬淵嘉平やのちの参政・吉田東洋らを中心に緊縮財政や綱紀粛正を推進したが、保守派の反発により短期間で失脚した。
天保改革下における「おこぜ組」の台頭
1840年代、幕府の天保の改革と呼応する形で、全国の諸藩でも独自の藩政改革が断行された。土佐藩においては、第13代藩主・山内豊熙が深刻な財政危機を克服するため、家格にとらわれない有能な中下級武士の登用を図った。このとき、改革の実行部隊として抜擢されたのが、馬淵嘉平や、のちに幕末の土佐藩を主導する吉田東洋らを中心とする若手改革派グループであった。
彼らは他者から「おこぜ組」と称された。この風変わりな名称の由来には諸説あるが、「山の神は醜い魚のオコゼを好む」という俗信にちなみ、藩主(山神)の寵愛を背景に急進的な改革を推し進める彼らを、門閥保守派が揶揄して名付けたという説が有力である。おこぜ組は、藩主の信任を背景に、徹底した倹約令の施行、物価の引き下げ、文武の振興など、藩政の刷新を試みた。
おこぜ組の挫折とその歴史的影響
しかし、おこぜ組の急進的な改革は、特権を脅かされた門閥層や老臣らの強い反発を招いた。さらに、改革の最大の後盾であった藩主・山内豊熙が1848年に急死したことで、彼らは政治的な基盤を失う。保守派の巻き返しにより、馬淵や吉田東洋ら「おこぜ組」のメンバーは悉く罷免され、改革は挫折に追い込まれた。
おこぜ組による天保の改革自体は短命に終わったものの、この運動を通じて培われた若手官僚のネットワークと改革思想は失われなかった。のちに第15代藩主・山内容堂のもとで復権した吉田東洋は、「新おこぜ」と称される門下生(後藤象二郎や板垣退助ら)を育成し、さらなる近代化改革(安政の改革)へと繋げていく。おこぜ組の系譜は、幕末の政局において土佐藩が「雄藩」として台頭するための重要な布石となったのである。