土佐藩 (とさはん)
【概説】
江戸時代に土佐国(現在の高知県)を領有した、外様大名の山内氏が治める藩。関ヶ原の戦い後に山内一豊が入封して成立し、特異な身分制度を抱えながらも、幕末には「薩長土肥」の一角として明治維新期に主導的な役割を果たした。
藩の成立と「上士・下士」の二重構造
土佐藩は1600年の関ヶ原の戦いにおいて、東軍に属して功績を挙げた山内一豊が、西軍に与して改易された長宗我部盛親の旧領(土佐一国)を与えられたことで成立した。一豊は高知城を築いて城下町を整備し、藩政の基礎を固めた。
しかし、長宗我部氏の旧臣たちの抵抗は根強く、山内氏はこれを懐柔・抑圧するために独特の身分制度を構築した。山内氏に従って入国した家臣を「上士」とする一方、長宗我部氏の遺臣や一領具足(半農半士の兵士)の流れを汲む人々を「下士(郷士など)」として厳しく差別した。この上士と下士の峻烈な身分差は藩内に深刻な対立構造を残し、のちの幕末期における藩の動向や、坂本龍馬、武市半平太ら下士層による尊王攘夷運動の台頭に決定的な影響を与えることとなった。
天保改革期の挫折と「おこぜ組」の登用
19世紀前半、慢性的な財政難に苦しむ土佐藩では、他藩と同様に本格的な藩政改革の必要性に迫られた。13代藩主・山内豊熙(とよひろ)の時代には、門閥打破と綱紀粛正を掲げる改革派が台頭した。この中心人物が馬淵嘉平であり、彼ら改革派のグループは「おこぜ組」と称された。
「おこぜ組」による改革は、奢侈の禁止や徹底した倹約、人事の刷新、さらには藩営の専売制強化などを目指すものであった。しかし、急速な緊縮財政や改革の強硬な姿勢は、既得権益を守ろうとする保守派(門閥層)の激しい反発を招いた。さらに、1848年に改革の後盾であった藩主・豊熙が急逝したことで「おこぜ組」は後ろ盾を失って失脚し、この段階での藩政改革は挫折を余儀なくされた。
山内豊信(容堂)と吉田東洋による幕末の改革
「おこぜ組」の挫折後、15代藩主(のちに隠居して容堂と名乗る)となった山内豊信のもとで、土佐藩は再び本格的な近代化改革へと舵を切る。豊信は「幕末の四賢侯」の一人に数えられる英明な人物であり、家格にとらわれず実力主義で吉田東洋を参政に抜擢した。
吉田東洋は、従来の朱子学にとらわれない海南学派(土佐独自の学問系統)の合理主義的な思想に基づき、法律の整備(新置目の制定)や、西洋式軍制の導入、さらには藩営の貿易商社である「開成館」を設立して物産専売を強化するなど、富国強兵策を強力に推し進めた。東洋の近代化路線は、藩の財政を再建させ、幕末の政局で土佐藩が雄藩として発言権を得るための基盤を築いた。
東洋はのちに、保守派と結んだ武市半平太らの「土佐勤王党」によって暗殺されるが、彼の門下である後藤象二郎や福岡孝弟らが藩政を引き継いだ。彼らは坂本龍馬の仲介を経て、将軍・徳川慶喜に対して大政奉還の建白を行い、武力倒幕を回避しつつ朝廷を中心とする新体制への移行を模索した。結果として土佐藩は、薩摩藩・長州藩とは異なる「公武合体派」に近い立場から明治維新の激動期をリードすることとなった。