海部俊樹内閣 (かいふとしきないかく)
【概説】
リクルート事件後の自民党の政治的危機の中で発足し、バブル崩壊や湾岸戦争への対応に追われた平成初期の内閣。冷戦終結という激動の国際情勢下で、多国籍軍への多額の資金援助や自衛隊初の海外派遣となる掃海艇派遣を行い、日本の安全保障政策に大きな転換点をもたらした。
政権発足の背景と「クリーン政治」の演出
1989年(平成元年)、自民党はリクルート事件や消費税の導入、さらに宇野宗佑首相の女性スキャンダルなどが重なり、同年の参議院議員選挙で大敗を喫して結党以来初の「ねじれ国会」を現出させた。この危機的状況を打開するため、党内中堅でクリーンなイメージを持ち、弁舌に優れた海部俊樹が首相に擁立され、第1次海部俊樹内閣が発足した。
海部内閣は自民党の刷新を強くアピールし、高い内閣支持率を背景に1990年の衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導き、政権の安定化に成功した。しかし、政権の実質的な主導権は党内最大派閥である竹下派(経世会)の指導部(金丸信や小沢一郎ら)が握っており、二重権力構造とも評された。
湾岸戦争と「国際貢献」をめぐる葛藤
海部内閣の最大の試練となったのが、1990年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻と、それに続く1991年の湾岸戦争であった。アメリカを中心とする多国籍軍に対し、日本政府は憲法上の制約から軍事的な貢献ができず、総額で130億ドルにのぼる莫大な財政支援を行った。しかし、この資金援助は国際社会、特に米国から「チェックブック外交(金だけ出す外交)」として激しく批判された。
この批判を契機に、人的な国際貢献の必要性が痛感されることとなった。海部内閣は自衛隊を海外派遣するための「国連平和協力法案」の成立を図ったが、野党の反対で廃案となった。その後、1991年4月に湾岸戦争の停戦を受けて、政府はペルシャ湾へ自衛隊の掃海艇派遣を潜水艦救難母艦などとともに実施した。これは自衛隊結成以来、初の本格的な海外実戦的任務への派遣であり、後のPKO(国連平和維持活動)協力法制定への重要な布石となった。
政治改革の挫折と退陣
内政において海部内閣は、リクルート事件以来の政治不信を解消するため、選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制の導入)を柱とする政治改革を政権の最重要課題に掲げた。しかし、この改革案は自民党内からも強い反発を受け、野党との調整もつかず国会で廃案の見通しとなった。
海部首相は「重大な決意で臨む」として衆議院解散を示唆したが、党内最大派閥である竹下派の支持を失ったことで解散を断念せざるを得なくなり、1991年11月に内閣総辞職へと追い込まれた。海部内閣の退陣後、宮澤喜一内閣が発足することとなる。