水戸藩
【概説】
常陸国水戸(現在の茨城県水戸市)に藩庁を置いた、徳川御三家の一つ。代々藩主が江戸に常住する「江戸定府」を原則とし、幕政に強い影響力を持つ独特の地位を占めた。幕末には第9代藩主・徳川斉昭のもとで藩政改革が進められ、後期水戸学の興隆とともに全国の尊王攘夷運動の思想的源流となった。
御三家としての特異な地位と「江戸定府」
水戸藩は、徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする親藩であり、尾張藩・紀州藩とともに徳川御三家と称された。石高は当初25万石(のちに35万石)と御三家のなかでは最も低かったが、水戸藩主は参勤交代を行わず、常時江戸に居住して将軍を補佐する「江戸定府」を義務付けられていた。これにより、藩主は「天下の副将軍」と俗称され、幕政に対して直接意見を具申できる特別な政治的地位を有していた。この特異な立ち位置が、のちに幕末の政局において水戸藩が大きな発言権を得る背景となった。
『大日本史』編纂から「水戸学」の展開へ
水戸藩の学問・思想における最大の特徴は、第2代藩主・徳川光圀が開始した巨大な歴史編纂事業『大日本史』に端を発する学風、すなわち水戸学(前期水戸学)にある。朱子学的大義名分論に基づき、朝廷を尊ぶ「尊王」と、幕府への忠誠である「敬幕」を一貫させる思想として形成された。
19世紀に入り、ロシアやイギリスなどの外国船が日本近海に現れるようになると、この学問は対外的な危機感と結びつき、独自のナショナリズムへと変容を遂げた。藤田幽谷やその門下の会沢正志斎、藤田東湖らによって体系化された「後期水戸学」は、日本独自の国体の尊さを説き、外敵を排撃すべしとする尊王攘夷論へと発展した。特に会沢が著した『新論』は、全国の志士たちに多大な思想的影響を与え、幕末の政治運動の聖典となった。
徳川斉昭の藩政改革と激動の幕末政局
天保期、第9代藩主・徳川斉昭は、藤田東湖らを登用して積極的な藩政改革(天保の改革)を推進した。藩校である弘道館を創設して文武を奨励したほか、蝦夷地開拓の主唱、軍事力の強化などを図った。斉昭の改革姿勢は、幕政にも強い影響を及ぼし、ペリー来航に際しては「攘夷」の急先鋒として幕府の外交方針に介入した。
しかし、こうした水戸藩の過激な政治主張は、大老・井伊直弼との対立を招き、安政の大獄によって斉昭や藩士らが処罰される事態となった。これに反発した水戸脱藩浪士らは、1860年に桜田門外の変を起こして井伊を暗殺した。さらに藩内は、尊王攘夷派の「天狗党」と、保守派の「諸生党」に分裂して凄惨な内乱(天狗党の乱など)に突入した。この過酷な党争によって多くの有為な人材を失った水戸藩は、尊王攘夷思想の源流でありながら、皮肉にも明治維新の主流から外れていくこととなった。