山川菊栄 (やまかわきくえ)
【概説】
大正から昭和期にかけて活躍した、日本の代表的な社会主義婦人運動家、評論家。伊藤野枝らとともに日本初の社会主義女性団体「赤瀾会」を結成し、階級闘争による根本的な女性解放を主張した。戦後は労働省の初代婦人少年局長に就任し、働く女性の地位向上に尽力した。
平塚らいてうとの「母性保護論争」
山川菊栄(旧姓・青山)が婦人運動・思想界で頭角を現した契機として、1918年(大正7年)から翌年にかけて展開された「母性保護論争」が挙げられる。この論争は、与謝野晶子が主張する「国家の保護に頼らず女性は経済的に独立すべきである」という見解と、平塚らいてうが主張する「国庫による母性(出産・育児)の保護が必要である」という見解の対立から始まった。
この議論に割って入った山川は、双方の意見を資本主義社会の枠内に留まるものとして批判した。山川は、女性の労働環境や社会的地位を改善するためには国家の補助が不可欠であるとしつつも、私有財産制と資本主義体制が存続する限り真の母性保護や女性の経済的自立は不可能であると指摘した。そして、社会主義社会の実現によってのみ、育児の社会化と女性の労働解放が両立できると主張し、論争を思想的に高い次元へと引き上げた。
新婦人協会への批判と「赤瀾会」の結成
大正デモクラシーの進展に伴い、平塚らいてうや市川房枝らは1920年(大正9年)に「新婦人協会」を設立し、治安維持法(当時は治安警察法)第5条の改正運動など、法制度の枠内での女性の権利獲得(婦人参政権運動)を目指した。これに対し山川は、こうした運動をブルジョア女性の利益のみを代表する「ブルジョア婦人運動」と批判し、労働者階級の女性を救うためには体制そのものを変革する階級闘争が必要であると説いた。
1921年(大正10年)、山川は伊藤野枝や秋月静枝、さらに夫の山川均(日本社会党・共産党創設メンバー)らとともに、日本初の社会主義婦人団体である赤瀾会(せきらんかい)を結成した。同年のメーデーには赤い旗を掲げてデモに参加し、軍国主義と資本主義の打倒を訴えた。赤瀾会自体は当局の激しい弾圧により短期間で解散に追い込まれたが、のちの無産婦人運動の先駆となり、日本の労働運動における女性の存在感を大きく高めることとなった。
戦後の活動と婦人少年局長への就任
昭和初期の治安維持法の強化や戦時体制への移行に伴い、社会主義運動は厳しく弾圧され、山川も不遇の時代を過ごした。しかし、言論統制のもとでも信念を曲げず、夫の均とともに農業やウズラ飼育などで生計を立てながら沈黙を守り通した。
敗戦後の1947年(昭和22年)、日本社会党の片山哲内閣が発足すると、新設された労働省の初代婦人少年局長に抜擢された。山川はここで、労働基準法の制定に関わり、男女同一労働同一賃金の原則の確立や、産前産後休暇・生理休暇の法制化に尽力した。官僚を退いた後も、婦人問題の理論的指導者として、戦後民主主義におけるジェンダー平等の基礎を築き続けた。