兵士

重要度
★★

兵士 (ひょうし)

7世紀末〜10世紀初頭

【概説】
律令制に基づいて諸国の軍団に徴発され、軍事訓練を受けながら治安維持や国境警備にあたった農民。正丁(21〜60歳の健康な男性)の3人に1人の割合で割り当てられ、自弁による重い経済的・身体的負担に苦しめられた存在。

軍団制と兵士の徴発システム

大化の改新から大宝律令の制定に至る過程で、律令国家は天皇を中心とする中央集権体制を維持するため、強力な軍事組織を整備した。その末端を支えたのが、国府などに置かれた軍団と、そこに配備された兵士(ひょうし)である。

兵士は、戸籍に登録された21歳から60歳までの健康な男性(正丁)の中から、3人に1人の割合で徴発された。彼らは平時は自ら耕作を行い、交代で軍団に赴いて武芸の訓練を受け、国府の警備や国内の治安維持にあたった。このような「皆兵制」に近い皆労の軍事義務は、唐の折衝府制度を模倣したものであった。

過酷な負担と「衛士」「防人」の悲劇

国家による兵士の徴発は、農民にとって耐え難い重荷であった。その最大の要因は、弓矢、甲冑、武器、さらには遠征中の食料(兵糧)や被服に至るまで、調度品のほとんどが自弁(自己負担)であった点にある。これにより、兵士を出した農家は急速に困窮していった。

さらに、兵士の中から選抜されて平城京などの都に派遣された衛士(えじ)や、九州北部の国境警備に送られた防人(さきもり)の役務は過酷を極めた。特に防人は東国から多くの兵士が徴発され、現地へ向かう旅費すら自己負担であった。この惨状は『万葉集』の「防人歌」にも生々しく描かれており、過酷な負担に耐えかねた農民の浮浪や逃亡を誘発し、律令制崩壊の一因となった。

軍団制の解体と武士の誕生への系譜

平安時代に入ると、農民の逃亡と兵質の低下により、軍団制は急速に形骸化した。これに対し桓武天皇は、792年(延暦11年)に佐渡や対馬などの国境離島を除き、全国の軍団と兵士を廃止した。これに代わって導入されたのが、郡司の子弟や有力農民などの志願者からなる少数精鋭の健児(こんでい)制である。

一般農民の動員(兵士)をあきらめ、地方守護を地方の「武芸の家」に委ねる方針への転換は、その後の地方社会の武装化を加速させた。これがのちに、自らの土地を守るために武装した「武士」が誕生する歴史的土壌となり、中世の武家社会へとつながっていくこととなる。

古代日本の軍事航海史 (中巻)

水軍の編成や海上輸送の展開を通じ、古代日本の軍事力と国家防衛の歴史的本質を克明に解き明かす意欲的な通史。

律令国家と東アジア (日本の対外関係 2)

律令体制下における外交儀礼や対外交流の諸相を多角的に検証し、当時の東アジア情勢と日本の位置づけを問う一冊。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1996年に島根県で発見され、一ヶ所からの出土数としては国内最多となる39個の銅鐸が出土した遺跡はどこか?
Q. 九州から本州が弥生・古墳時代であった頃、沖縄などの南西諸島において、サンゴ礁での漁労や採集を中心に独自の発展を遂げた文化を何というか?
Q. 律令において定められた五刑(むち打つ刑から死刑まで)を、軽い順から5つすべて漢字1文字ずつで答えよ。