軍団

重要度
★★

軍団

7世紀末〜11世紀初頭

【概説】
律令制下において、諸国の国府周辺に配備された国家の正規軍組織。戸籍に登録された正丁の3人に1人を徴発して編成され、地方の治安維持や国境警備、都の警護などを担った。

律令体制の確立と軍団創設の背景

軍団の創設は、7世紀後半の緊迫した東アジアの国際情勢と深く結びついている。663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した大和政権は、本土防衛のために急速な国家体制の整備を迫られた。天智・天武・持統天皇の時代を通じて中央集権化が進められ、その結晶として701年に大宝律令が制定されると、地方支配と防衛の要として全国に軍団が配置されることとなった。

軍団は、原則として各国に1〜数個所(1軍団は概ね500〜1000人規模)設置され、地方官である国司の指揮下に置かれた。これは、それまでの大豪族が私有していた軍事力を国家が一元的に管理・動員する体制へ移行したことを意味し、天皇を中心とする中央集権国家の象徴的な制度であった。

軍団の組織構造と兵士の過酷な実態

軍団の兵士は、各戸籍に登録された正丁(21歳から60歳までの健康な男性)の3人に1人の割合で徴発された。彼らは平時は農業に従事しつつ、交代で軍団に赴いて訓練を受けた。また、軍団の兵士の中から、都の警備を担当する衛士(えじ)や、九州の国防を担う防人(さきもり)が選抜され、それぞれ現地へ派遣された。

しかし、この兵役は農民にとって極めて過酷なものであった。兵士の武器や衣服、食糧などの大半は自弁(自己負担)とされ、さらに衛士や防人として赴任する際の往復の旅費や食糧も自己負担であった。この重い負担は農民の生活を困窮させ、籍を偽る「浮浪」や逃亡、あるいは戸籍の性別を偽る「偽籍」といった抵抗を招き、律令支配の根幹を揺るがす要因となっていった。

軍団の衰退と「健児の制」への移行

8世紀後半になると、兵士の質的低下や逃亡の続出により、農民徴兵制に基づく軍団制度は事実上機能しなくなっていった。こうした状況を受け、792年(延暦11年)、桓武天皇は東北地方(陸奥・出羽)や九州(西海道)、対領外(佐渡)などの国境・辺境地域を除き、全国の軍団を廃止した。

軍団に代わって導入されたのが健児(こんでい)の制である。これは、郡司の子弟や裕福な農民などの「不逞でない者」から少数精鋭の志願兵を募り、地方の治安維持に当たらせる制度であった。この軍事制度の転換は、国民皆兵的な律令軍制の終焉を意味するとともに、地方の治安維持が在地の富豪層や武芸専門の家系に依存する契機となり、後の武士の発生へとつながる重要な画期となった。

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