南部仏印進駐 (なんぶふついんしんちゅう)
【概説】
1941年7月、日本軍が南方資源の獲得や軍事拠点の確保を目的に、フランス領インドシナ(仏印)の南部地域へ進駐した事件。この行動は日米関係を決定的に悪化させ、太平洋戦争へと突入する直接的な契機となった。
「南進論」の具体化と進駐の背景
1940年、日本は日中戦争における中国(重慶の蒋介石政権)への物資補給ルート(援蒋ルート)を遮断するため、すでにフランス領インドシナの北部に進駐していた(北部仏印進駐)。その後、1941年6月に独ソ戦が勃発すると、日本政府および陸海軍の内部では、ソ連を攻撃すべきとする「北進論」と、東南アジアの資源地帯を確保すべきとする「南進論」が対立した。
議論の結果、同年7月2日の御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。これにより、ソ連との戦い(北進)は準備にとどめ、当面は対米英戦をも辞さない覚悟で南進を優先する方針が確立した。その第一歩として、マレーやオランダ領東インド(現在のインドネシア)の石油資源獲得を視野に入れ、戦略的拠点となる南部仏印への進駐が計画された。
フランス(ヴィシー政権)との交渉と無血進駐
当時、本国フランスはナチス・ドイツに敗北し、親独派のヴィシー政権が樹立されていた。日本側はヴィシー政権に対して、南部仏印の「共同防衛」を名目に、軍事基地の提供や軍隊の駐留を認めるよう強硬に要求した。
フランス側は抵抗の術を持たず、1941年7月下旬に日仏共同防衛プロトコルが調印され、日本軍の南部進駐が合意された。これにより、日本軍は戦闘を交えることなく、サイゴン(現ホーチミン)を中心とする南部仏印一帯への進駐を完了した。しかし、この強引な勢力圏の拡大は、東南アジアに権益を持つ欧米列強に深刻な危機感を与えることとなった。
対米関係の破綻と太平洋戦争への道
日本の南部仏印進駐に対し、アメリカ合衆国は即座に猛烈な反発を示した。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、日本国内の在米資産を凍結し、さらに同年8月には日本に対する石油の全面禁輸措置を断行した。当時の日本は軍用石油の大部分を米国からの輸入に依存していたため、この措置は日本経済および軍事行動にとって致命的な打撃となった。
これにイギリスやオランダ、中国も同調し、いわゆる「ABCD包囲網」が形成され、対日経済制裁が強化された。石油を断たれた日本は、外交交渉による打開(日米交渉)を試みる一方で、時間経過とともに燃料が枯渇して軍事能力が低下することを恐れ、自給自足の資源地帯(特に蘭印の石油)を武力で確保するための南進、すなわち対米英開戦の決意を固めていくこととなった。