石油(全面禁輸)
【概説】
南部仏印進駐に対する報復として、1941年にアメリカが日本に対して発動した最も強力な経済制裁。この措置によって日本は深刻なエネルギー危機に直面し、国家の存亡を賭けた太平洋戦争へと踏み切る決定的な要因となった。
日米関係の悪化と経済制裁の段階的強化
1937年に勃発した日中戦争が長期化・泥沼化するなか、アメリカは日本の中国大陸における拡張政策に対して強い警戒心を抱いていた。アメリカは1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告し、翌1940年からは航空機用燃料や屑鉄(鉄鋼)などの対日輸出制限を段階的に実施して日本に圧力をかけた。しかし、日本は国際的孤立を打開するためにドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を締結し、さらに物資の供給源を求めて東南アジアへの進出(南進)を画策したため、日米間の対立は後戻りできない水準へと悪化していった。
南部仏印進駐とABCD包囲陣の形成
1941年(昭和16年)7月、日本軍は石油やゴムなどの資源確保と援蒋ルート(中国の蔣介石政権への物資支援路)の完全遮断を目的として、フランス領インドシナ南部(現在のベトナム南部)へ武力進駐した(南部仏印進駐)。アメリカはこれを東南アジア全域への武力侵略の足掛かりであるとみなし、強硬な報復措置に出る。7月25日、アメリカは在米日本資産の凍結を発表し、イギリスやオランダ領東インド(蘭印)の植民地政府もこれに追随した。これにより、日本に対する経済封鎖網であるABCD包囲陣(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)が完成することとなった。
石油全面禁輸と日本への衝撃
資産凍結に続き、同年8月1日、アメリカは日本への石油輸出の全面禁止という最も重い制裁に踏み切った。当時の日本は、消費する石油の約8割をアメリカからの輸入に依存していた。そのため、この全面禁輸措置は日本経済および軍事行動に対する文字通りの「死命を制する」一撃であった。国内の石油備蓄は、平時の需要水準でも約2年、戦時の激しい消耗下においては1年半から2年弱しかもたないと試算された。軍部、とりわけ膨大な燃料を必要とする海軍は、このままでは艦隊が動かせなくなり戦わずして敗北するという深刻な危機感(いわゆる「ジリ貧」の恐怖)に苛まれることになった。
太平洋戦争開戦への決定的な引き金
石油の全面禁輸によって、日本に残された選択肢は、アメリカの要求(中国大陸や仏印からの撤兵など)を受け入れて禁輸を解除してもらうか、あるいは武力を用いてオランダ領東インド(蘭印)の油田地帯を奪取するかの二者択一となった。日本政府は日米交渉による事態の平和的打開を模索したものの、妥協点は見出せず、11月下旬にアメリカ側から強硬な最終提案であるハル・ノートが提示されたことで交渉は事実上決裂した。自存自衛のための資源枯渇を恐れた日本はついに武力発動を決断し、1941年12月8日の真珠湾攻撃およびマレー半島上陸作戦へと突き進むこととなった。アメリカによる石油の禁輸は、日本を太平洋戦争開戦へと追い詰めた最大の契機として、日本近現代史において極めて重大な意味を持っている。