健児 (こんでい)
【概説】
792年(延暦11年)、桓武天皇が地方の治安維持と農民の負担軽減のために創設した軍事制度、およびその兵士。
従来の徴兵制である軍団を原則として廃止し、代わりに郡司の子弟や富裕な農民などから弓馬に優れた者を少数精鋭で採用した。
律令国家における軍制の限界
大宝律令などの律令体制下において、国家の軍事力は軍防令に基づく軍団によって支えられていた。これは正丁(21〜60歳の成年男子)の3〜4人に1人を兵士として徴発する国民皆兵的な制度であり、農民は諸国に配置された軍団で訓練を受け、さらには衛士として都の警備や、防人として九州の防衛にあたる義務を負っていた。
しかし、奈良時代後期になると、重い兵役と自弁による食糧・武器の負担は農民にとって極めて過酷なものとなっていた。その結果、兵役から逃れるための逃亡や、戸籍の性別などを偽る偽籍(ぎせき)が横行した。農民の没落と逃亡は国家の根幹である租庸調の税収減少にも直結するため、軍団制の維持はもはや限界に達していたのである。
桓武天皇による健児の制の創設
このような状況を打破するため、桓武天皇は792年(延暦11年)に抜本的な軍制改革を断行した。蝦夷との戦争が続く陸奥・出羽や、対外的な緊張がある西海道(九州)、流刑地である佐渡などの辺境地域を除き、内陸諸国の軍団と兵士を廃止したのである。これにより、一般の公民(農民)は兵役の義務から解放され、大きな負担軽減となった。
軍団に代わって地方の治安維持を担う新たな兵力として採用されたのが健児(こんでい)である。各国の国司は、郡司の子弟や地方の富豪など、日頃から馬を飼育し弓馬の道に優れている者を志願または選抜によって採用した。これは、従来の農民による大規模な歩兵主体の素人集団から、専門的な戦闘技術を持つ者による少数精鋭の騎兵部隊へと、国家の軍事方針が大きく転換したことを意味する。
健児の役割と実態
健児の主な任務は、国衙(国府)の警備や、国内の治安維持、さらには官稲(税として集められた稲)や武器庫の管理などであった。人数は国によって異なり、大国で数十人から百人程度、全体でも全国で三千人余りと、旧来の軍団兵士に比べて極めて少人数であった。任期は定められており、交代で勤務に就き、勤務中には食糧などが支給された。
しかし、健児は少人数であったため、次第に地方で頻発する群盗の横行や私闘を鎮圧するには力不足となっていった。また、採用された郡司の子弟らも自らの私営田の経営に注力するようになり、軍事的な実効性は9世紀中頃には早くも形骸化していくこととなる。
武士の台頭へとつながる歴史的意義
健児の制が導入されたことは、日本史において極めて重要な転換点である。国家が人民を直接徴兵して編成する「公地公民に基づく軍隊」を実質的に放棄し、軍事力を地方の有力者(富豪の輩)の個人的な武力や騎馬技術に依存し始めたからである。
健児の制度が十分に機能しなくなった後、平安時代中期の朝廷や国司(受領)は、地方の反乱や群盗を鎮圧するため、押領使や追捕使といった臨時の官職を設け、土着した下級貴族や地方の有力者に武力鎮圧を委任するようになった(国衙軍制)。このように、健児の制において「弓馬に優れた者」が軍事を担うという方針が示されたことは、後の時代における武士階級の発生・成長の歴史的な起点として位置づけられている。