衛士 (えじ)
【概説】
律令制下において、地方の軍団から選抜されて都に上り、宮廷や京内の警備にあたった兵士。五衛府などの指揮のもとで内裏の守衛や行幸の供奉に従事し、古代の中央集権体制を軍事面から支えた存在。
律令軍制における衛士の役割と組織
飛鳥時代後期から奈良時代にかけて整備された律令国家において、戸籍に登録された正丁(21歳から60歳までの健康な男子)の3分の1が兵士として徴用され、各国に置かれた軍団に配属された。この軍団の兵士の中から選抜されて平城京などの都へ派遣されたのが衛士である。一方、東国から徴発されて九州(大宰府)の防備に赴いた兵士は防人(さきもり)と呼ばれ、衛士と並ぶ律令軍制の二大柱であった。
都に上った衛士は、宮廷の警備や治安維持を司る五衛府(衛門府・左右衛士府・左右兵衛府など、時代により変遷あり)の管轄下に置かれた。主な任務は、宮門の開閉や守衛、宮殿内部の巡検、さらに天皇や皇族が外出する際の護衛(行幸供奉)など、国家の最高中枢を物理的に護持することであった。防人の任期が3年であったのに対し、衛士の任期は原則として1年間と定められ、毎年交代で治安維持にあたった。
過酷な負担と律令体制の変質
一見すると都での華やかな護衛任務にも思える衛士だが、実態は極めて過酷であった。衛士に課された最大の課題は、都での勤務期間中および往復の道中における食糧(資糧)や衣服、武器、さらには旅費に至るまで、その多くが自己負担(自弁)であった点である。地方の農民にとって、農業生産活動から完全に離脱させられるだけでなく、多大な経済的負担を強いられる衛士の役務は、一家の没落に直結するものであった。
このため、任期を終えても自力で帰郷できずに京内で浮浪化する者や、帰路に行き倒れる者が後を絶たず、衛士の逃亡や配属の忌避が常態化した。こうした過酷な負担は、農民が戸籍を偽って兵役を免れようとする「偽籍」や、土地を捨てて逃亡する「浮浪」を激増させ、律令支配の根幹である人身支配(個別人身支配)を動揺させる一因となった。やがて兵士の質的低下や定員割れが進むと、朝廷は従来の国民皆兵的な軍制を維持できなくなり、792(延暦11)年には一部を除き諸国の軍団を廃止。郡司の子弟などからなる志願制の兵力である健児(こんでい)へと移行し、衛士を中心とする初期の律令軍制は実質的に崩壊へと向かうこととなった。