馬韓 (ばかん)
【概説】
紀元前2世紀から4世紀頃にかけて、朝鮮半島南西部に存在した部族国家の連盟体。東の辰韓、南東の弁韓とともに「三韓」を構成し、のちに古代国家の百済へと発展を遂げた地域。
三韓の形成と馬韓の社会構造
紀元前2世紀頃、朝鮮半島北部における衛氏朝鮮の動乱や漢による楽浪郡などの設置を契機として、半島南部への住民の移動と社会再編が進んだ。その結果、南部一帯に形成されたのが「三韓(馬韓・辰韓・弁韓)」と呼ばれる政治社会である。その中で、最も西側に位置し、最大の版図と人口を擁していたのが馬韓であった。
中国の歴史書『三国志』魏書東夷伝によれば、馬韓の地域内には50余りの小国(部族国家)が点在し、それらがゆるやかな連盟体を構成していた。気候は温暖で土地が肥えており、早くから水稲耕作などの農耕文化が発達していた。社会制度としては、共同体の祭祀を司る「天君」と呼ばれる祭司が存在し、世俗の権力がおよばない神聖な区域「蘇塗(そと)」で祭祀を行うなど、政治と宗教が未分化な段階の社会特有の習俗を維持していた。
百済への統合と弥生時代における倭国との交渉
4世紀に入ると、馬韓の小国群の一つで、現在のソウル周辺を拠点としていた「伯済国(はくさいこく)」が急速に台頭する。伯済国は高句麗の南下に対抗しつつ、周辺の馬韓諸国を次々に統合し、中央集権的な古代国家である「百済(くだら)」へと成長を遂げた。この百済への再編過程において、馬韓としての独自の小国割拠状態は収束していくこととなる。
日本の弥生時代において、馬韓は極めて緊密な関係を結んだ隣国であった。北部九州をはじめとする倭国(日本列島)の諸勢力は、馬韓や弁韓(のちの加羅・伽耶地域)の諸国と活発な交易を展開していた。考古学的にも、朝鮮半島系の無文土器や青銅器、さらには製鉄技術や鉄製品が倭国へともたらされたことが確認されている。馬韓は、倭国が東アジアの大陸文化や金属器技術を吸収し、社会の階層化や国家形成を進める上で、極めて重要な窓口としての役割を果たしていたのである。