旭日丸 (あさひまる)
1856年竣工
【概説】
幕末の海防強化を目的として、水戸藩主・徳川斉昭の主導により、江戸の石川島造船所で建造された洋式帆船。ペリー来航後の大船建造の禁緩和を受けて着工され、日本の近代造船史における先駆的な試みとなった一隻。
幕末の対外危機と洋式船建造の背景
嘉永6年(1853年)のペリー来航を契機に、江戸幕府は従来の鎖国体制を維持しつつも、急速な軍事力増強の必要性に迫られた。その一環として、寛永12年(1635年)以来、大名による大型軍船の保有を禁じていた「大船建造の禁」が緩和されることとなる。これを受けて、かねてより独自の海防論を展開し、幕府の海防参与に就任していた前水戸藩主・徳川斉昭は、江戸の隅田川河口にある石川島(現在の東京都中央区佃付近)に造船所を建設し、自藩の主導による洋式軍艦の建造に着手した。
技術的模索と「旭日丸」の歴史的意義
旭日丸は、オランダの専門書などを参考にした国産の三本マスト・フリゲート型帆船として設計された。しかし、当時の日本には大型洋式船の建造実績や西洋の科学的知識が著しく不足していたため、安政元年(1854年)の起工から安政3年(1856年)の竣工まで約2年の歳月を要した。完成後に幕府へ献上されたものの、復原性の不足など航行性能に重大な欠陥があり、実戦的な軍艦として活躍することはできず、主に輸送船として運用された。
しかし、お雇い外国人の直接指導を仰ぐことなく、日本の職人たち(伝統的な船大工など)の手によって大型洋式船を完成させた技術的試行錯誤は極めて重要である。この建造に関わった人材やノウハウは、その後の幕府や諸藩の近代化への足がかりとなり、石川島造船所がのちの近代造船産業(石川島播磨重工業、現・IHI)へと発展する源流となった点で、産業史上でも大きな価値を持っている。