高島秋帆

長崎の町年寄で、オランダ人から学んだ洋式砲術の公開演習を行って幕府に採用され、江川太郎左衛門らを指導した人物は誰か?
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重要度
★★

高島秋帆 (たかしましゅうはん)

1798〜1866年

【概説】
江戸時代後期の砲術家であり、長崎の町年寄。アヘン戦争に危機感を抱いてオランダ人から洋式砲術を学び、天保12年(1841年)に武州徳丸ヶ原で日本初の西洋式近代軍事演習を行った人物。

長崎での西洋軍事技術の習得とアヘン戦争の衝撃

高島秋帆は、江戸幕府の天領であり海外への唯一の窓口であった長崎で、代々町年寄を務める名門・高島家に生まれた。長崎という独自の環境を活かした秋帆は、出島のオランダ人からオランダ流の砲術や洋式軍事学を学び、私費を投じて西洋の近代兵器を買い揃えて独自の「高島流砲術」を確立した。

当時、東アジアの情勢は緊迫化していた。1840年に勃発したアヘン戦争において、大国である清がイギリスの近代軍事力の前に大敗したニュースは、秋帆に強い危機感をもたらした。従来の日本流の弓矢や旧式な火縄銃、伝統的な和流砲術では西洋列強の脅威に立ち向かうことは不可能であると確信した秋帆は、幕府に対して西洋式軍事技術の導入と海防の強化を訴える意見書(天保上書)を提出した。

徳丸ヶ原の公開演習と幕府への提言

秋帆の提出した上書は、国防に危機感を抱いていた幕閣(特に老中の水野忠邦ら)の関心を引き、天保12年(1841年)5月、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)において、幕府の役人たちを前にした日本初の洋式砲術・陣隊の公開演習が実施された。

この演習において、秋帆率いる門下生たちはオランダ語の号令のもと、ゲベール銃による一斉射撃や、青銅製の大砲を用いた野戦砲兵の演習を披露した。一糸乱れぬ集団行動と西洋兵器の圧倒的な破壊力は、見学した幕閣や諸藩の藩士たちに強烈な衝撃を与えた。これにより秋帆の実力は認められ、幕府直轄の砲術指導者として重用されるようになり、伊豆韮山代官の江川英龍ら多くの先進的な知識人が彼に弟子入りした。

保守派による弾圧と幕末の近代化への貢献

徳丸ヶ原での成功により一躍時代の寵児となった秋帆であったが、その急進的な改革姿勢と西洋化の動きは、幕府内の保守派の反発を招いた。翌天保13年(1842年)、洋学を敵視する目付の鳥居耀蔵(とりいようぞう)らの陰謀により、秋帆は密売買や謀反の嫌疑という濡れ衣を着せられ、投獄されてしまう(天保の改革における保守派による弾圧の一環)。

約10年に及ぶ不遇の幽閉生活を余儀なくされた秋帆であったが、1853年のペリー来航によって日本の対外危機が現実のものとなると、その先見性が再評価されて赦免された。出獄後の秋帆は幕府の軍事顧問として復帰し、江川英龍とともに江戸湾の砲台(お台場)の建設や、幕府講武所での洋式兵学の指導に尽力した。彼の蒔いた種は、幕末から明治維新へと至る日本軍隊の近代化(軍制改革)の確固たる土台となった。

高島秋帆 (人物叢書 新装版)

幕末の先駆者として西洋式砲術を導入し、近代軍事の礎を築いた高島秋帆の波乱に満ちた生涯を描き出す評伝。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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