ハルマ和解 (はるまわげ)
【概説】
江戸時代後期の1796(寛政8)年に完成した、日本初の本格的な蘭和(オランダ語・日本語)辞典。鳥取藩医の蘭学者・稲村三伯を中心に編纂され、約8万語のオランダ語に対応する日本語の訳語が収録された。それまで手探り状態であった蘭学者のオランダ語解読作業を飛躍的に効率化させ、その後の西洋学術の受容に決定的な影響を与えた史料である。
蘭学の発展と「辞書」という悲願
1774年に杉田玄白や前野良沢らによって『解体新書』が刊行されて以降、日本における西洋科学への関心、すなわち蘭学は急速な高まりを見せていた。しかし、当時の蘭学者たちには系統立ててオランダ語を学ぶための文法書や辞書が存在しなかった。彼らは長崎の阿蘭陀通詞(通訳官)から断片的に教えを乞うか、極めて限られた単語帳を頼りに、暗中模索の状態で洋書の翻訳にあたっていたのである。
このような状況下、前野良沢の弟子であり、大槻玄沢の私塾「芝蘭堂」で学んでいた鳥取藩医の稲村三伯は、語学の習得および蘭学のさらなる発展のためには本格的な辞書の編纂が不可欠であると痛感した。三伯は、フランスの言語学者フランソワ・ハルマ(François Halma)が著した『蘭仏辞典』(オランダ語・フランス語辞典)を入手し、これを底本として翻訳作業を開始した。
『ハルマ和解』の編纂と「江戸ハルマ」
稲村三伯による翻訳事業は、同じく芝蘭堂に学んだ宇田川玄随や、翻訳に優れた才能を発揮した岡田(のちの宇田川)玄真、さらに京都の蘭学者である小石元俊らの協力を得て進められた。彼らは底本である『蘭仏辞典』のフランス語訳部分に、一語一語丁寧に対応する日本語の訳語を当てはめていった。こうして1796(寛政8)年に完成したのが『ハルマ和解』である。約8万語という膨大な語彙を収録した、画期的な語学書であった。
この辞書は、木活字(一部は整版)を用いて印刷されたが、当時の技術的・財政的な制約から、刊行されたのはわずか30部程度にとどまったとされる。そのため、本辞書は編纂地にちなんで「江戸ハルマ」とも呼ばれ、大変な貴重書として扱われた。多くの蘭学者や諸藩の志士たちは、この貴重な『ハルマ和解』を書き写す(写本する)ことで語学学習に役立てた。
なお、これとは別に、長崎の阿蘭陀風説書などの解読にあたっていた長崎通詞の吉雄耕牛や、オランダ商館長(カピタン)のヘンドリック・ドゥーフらが編纂し、1833年に完成した蘭和辞典は「ドゥーフ・ハルマ(長崎ハルマ)」と呼ばれ、稲村らの「江戸ハルマ」と並んで幕末の語学研究の双璧をなした。
近代化の礎としての歴史的意義
『ハルマ和解』の誕生は、日本の学術史において計り知れない意義を持つ。本書の登場によって、日本の蘭学は「勘と経験」に頼る解読の時代から、辞書を用いて「論理的・組織的」に西洋の原典を読み解く時代へと脱皮を遂げた。これにより、医学のみならず、天文学、物理学、地理学、そして幕末期に急務となった兵学や砲術といった多分野にわたる西洋科学技術の受容スピードが飛躍的に加速した。
のちに宇田川玄真・玄随らが、日本初の本格的な薬学・化学書である『西説菩多尼訶経』や『舎密開宗』などを翻訳・刊行できた背景にも、この『ハルマ和解』によって培われた確固たる語学基盤が存在していた。江戸時代後期の知識人たちが西洋の進んだ知識を正確に受容し、それが明治維新以降の急速な近代化へとつながる土台を築いた点において、本書は日本文化史上、極めて重要なマイルストーンであるといえる。