伏見銀座 (ふしみぎんざ)
【概説】
徳川家康が慶長6年(1601年)に山城国伏見に創設した、日本最初の銀貨鋳造・鑑定機関。関ヶ原の戦いに勝利した家康が、全国的な幣制統一を目指して設置した。のちに京都、大坂、江戸などへ展開する「銀座」制度の先駆となった組織である。
家康の幣制統一政策と伏見銀座の誕生
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利を収め、実質的な天下人となった徳川家康は、全国を統一的に支配するための経済基盤として貨幣制度の整備に着手した。当時、国内では金山・銀山の開発が活発化していたが、流通する金銀貨は品質や形状がバラバラであり、取引の妨げとなっていた。
そこで家康は慶長6年(1601年)、自身が政治拠点としていた伏見城の下に伏見銀座を設置した。銀座の運営にあたっては、堺の豪商である湯浅作兵衛(末吉吉安)を長老とし、京都の銀細工師であった大黒常是(大和常是)を世襲の極印役(品質保証を行う役職)に任じた。ここで鋳造されたのが、大黒像の極印が打たれた高品位の慶長丁銀および慶長豆板銀であり、幕府による銀貨鋳造権の独占への第一歩となった。
銀座の移転と近世貨幣経済への影響
伏見銀座は、その後の江戸幕府の財政・貨幣政策の基礎を作った。慶長13年(1608年)に伏見銀座は京都の室町(両替町)へと移転し、京都銀座となった。さらに家康の隠居地であった駿府、そして将軍のお膝元である江戸、西国経済の中心地である大坂など、主要都市に順次銀座が設置されていった。今日の東京都中央区にある地名「銀座」も、慶長17年(1612年)に駿府の銀座が江戸に移転してきたことに由来している。
伏見から始まった銀座のシステムは、東日本の金貨(計数貨幣)に対して、西日本で広く用いられた銀貨(秤量貨幣)の流通を一元管理することを可能にした。これにより、「江戸の金使い、上方の銀使い」と呼ばれる二重貨幣制度が確立され、近世日本の広域商業ネットワークを支える決済手段として機能していくこととなった。