日本橋魚市場 (にほんばしうおいちば)
【概説】
江戸時代から大正時代にかけて、江戸・東京の日本橋に存在した大規模な魚市場。徳川幕府への魚介類献上の余剰品を売り出したことに始まり、巨大都市・江戸の旺盛な食の需要を支えた。日本橋川の水運を利用した一大物流拠点であり、近代における築地市場(現・豊洲市場)の前身にあたる。
幕府御用から始まった起源と佃島漁師
日本橋魚市場の起源は、江戸幕府の誕生と深く結びついている。徳川家康が江戸に入国した際、摂津国(現在の大阪府)から呼び寄せた森孫右衛門ら佃島の漁師たちに、江戸湾(東京湾)での御用漁(将軍家への献上)を許可した。彼らは幕府に納めた残りの魚を、将軍のお膝元である日本橋の袂(たもと)で売り出したが、これが魚市場の始まりとされている。
初期の魚市場は素朴なものであったが、江戸の人口急増に伴い急成長を遂げた。元和年間(1615〜1624年)には、大和屋助五郎などの問屋が、日本橋の本船町や小田原町一帯に本格的な魚問屋街を形成し、流通システムとしての整備が進んでいった。
水上交通の要衝と「一日千両」の賑わい
日本橋に魚市場が発展した最大の理由は、日本橋川を臨む立地の優位性にある。当時の物流の主役は船であり、江戸湾や周辺の河川から運ばれてくる魚介類は、直接舟で日本橋の荷揚げ場(河岸)に運び込まれた。これにより、鮮度が命である魚介類の迅速な取引が可能となった。
日本橋魚市場は、駿河町越後屋(三井呉服店)の店先、歌舞伎の中村座・市村座と並び、江戸で「一日に千両の金が動く場所」として江戸三千両に数えられた。市場内では、全国から魚を仕入れる魚問屋、それを競り落として市中に卸す仲買(なかがい)、そして棒手振(ぼてふり)と呼ばれる天秤棒を担いだ行商人が行き交い、江戸の活気ある庶民生活を象徴する場所となった。また、ここで扱われる多様な初物(初鰹など)は、江戸っ子のグルメ文化や見栄を張る気質を大いに育んだ。
近代化と関東大震災による終焉
明治維新後も、日本橋魚市場は東京市民の食を支える中心地として存続した。1889年(明治22年)には「東京魚問屋組合」が結成されるなど、近代的な組織化が進められたが、密集地ゆえの衛生面の問題や、鉄道網の整備による陸上輸送への移行などから、大正期には市場の移転論が本格化した。
移転への決定打となったのが、1923年(大正12年)の関東大震災である。この大災害によって日本橋の魚市場は壊滅的な被害を受けた。震災後、市場は芝浦の仮設市場を経て、旧海軍省所有地であった築地(中央区)へと移転し、1935年(昭和10年)に東京都中央卸売市場(築地市場)として正式に開市した。これにより、江戸初期から約300年続いた日本橋魚市場はその歴史に幕を閉じたが、その活気と流通ネットワークは現代の築地・豊洲へと受け継がれている。