第2次若槻礼次郎内閣 (だいにじわかつきれいじろうないかく)
【概説】
昭和恐慌の最中に成立した、立憲民政党の若槻礼次郎を首相とする日本の内閣。満州事変の勃発に対して不拡大方針を掲げたものの、軍部の独走を阻止できずに閣内不統一に陥り、短期間で総辞職を余儀なくされた。
濱口雄幸内閣の挫折と第2次若槻内閣の組織
1931年(昭和6年)4月、ロンドン海軍軍縮条約の調印・批准をめぐって右翼に狙撃された濱口雄幸首相が、病気平癒に至らず退陣した。これを受けて、立憲民政党の総裁を引き継いだ若槻礼次郎が、同党の単独政権として第2次内閣を組織した。
新内閣は前内閣の基本路線を継承し、井上準之助蔵相による緊縮財政と金解禁政策、および幣原喜重郎外相による国際協調外交(幣原外交)の維持を目指した。しかし、昭和恐慌の深刻化による農山漁村の疲弊や社会的不安、さらに軍縮に反発する軍部や右翼の不満が高まっており、政権は発足当初から極めて不安定な基盤の上に立たされていた。
満州事変の勃発と「不拡大方針」の破綻
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で関東軍が自ら南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始する満州事変が勃発した。若槻内閣は事態の悪化を防ぐため、直ちに不拡大方針を閣議決定して内外に声明した。
しかし、現地の関東軍は政府の意向を無視して戦線を拡大した。さらに、朝鮮軍司令官の林銑十郎が独断で国境(鴨緑江)を越えて満州へ出兵(越境出兵)する事態に至った。若槻首相はこれを昭和天皇に奏上して事後承認せざるを得ず、軍部の独走に対する政府の統制能力の欠如、いわゆる「統帥権の独立」を盾にした軍部の専横を露呈する結果となった。
「協力内閣」構想の挫折と総辞職
満州事変の処理や経済危機の打開をめぐり、閣内では激しい対立が生じた。安達謙蔵内相らは、難局を乗り切るために野党である立憲政友会との連立政権(協力内閣)を組織すべきだと主張した。これに対し、幣原外相や井上蔵相らは民政党の政党政治の原則を守る立場から強く反対し、閣内不統一が深刻化した。
安達内相が閣議への出席を拒否するなど事態は泥沼化し、若槻首相はリーダーシップを発揮できぬまま、同年12月にわずか8ヶ月で内閣総辞職に追い込まれた。後継には立憲政友会の犬養毅内閣が成立し、金輸出品の再禁止を行って金解禁政策から離脱するとともに、満州事変の解決に向けてより強硬な姿勢へと転換していくこととなった。これにより、大正デモクラシー期から続いた憲政の常道(二大政党による政権交代の慣行)は崩壊へと向かうこととなった。