錦絵
【概説】
鈴木春信らの工夫によって明和年間(1765年頃)に誕生した、多色刷りの美しい木版画による浮世絵。絵師・彫師・摺師の高度な分業体制によって制作され、美人画や役者絵、風景画など多様なジャンルを生み出して江戸時代の庶民文化を大きく発展させた。
浮世絵版画の発展と錦絵の誕生
浮世絵版画は、17世紀後半の菱川師宣による墨一色の「墨摺絵」から始まった。その後、筆で赤系統の顔料を彩色する丹絵や紅絵を経て、18世紀半ばには2、3色を版木で摺る「紅摺絵(べにずりえ)」が主流となっていた。こうした中、1765年(明和2年)に江戸の裕福な俳人や趣味人の間で、大小の月の並びを絵の中に隠したカレンダーである「絵暦(大小暦)」を交換する絵暦交換会が流行した。この趣味的な交換会のために、金に糸目をつけない豪華な摺物が求められ、浮世絵師の鈴木春信らがそれに応える形で多色刷りの木版画を創始した。京都の西陣織(錦)のように色彩が美しく鮮やかなことから「錦絵」と名付けられ、これを機に江戸の浮世絵版画は飛躍的な発展を遂げることとなった。
錦絵を支えた技術と分業体制
フルカラーの錦絵の誕生には、技術の革新と高度な分業体制の確立が不可欠であった。多色刷りにおいて最も重要なのは、何十回と色を重ねる際にズレが生じないようにする工夫である。これには、版木の隅に「見当(けんとう)」と呼ばれる位置合わせの印を刻む技術が確立されたことが大きい。また、摩擦に耐えうる丈夫で真っ白な奉書紙の普及も、鮮やかな発色を可能にした。制作にあたっては、下絵を描く絵師(浮世絵師)、版木を彫る彫師、紙に色を摺る摺師という三者の高度な分業体制が敷かれた。さらに、彼らをプロデューサーとして統括し、作品を企画・販売する版元(地本問屋)の存在が、出版ビジネスとしての錦絵の隆盛を支えたのである。
江戸文化の成熟と黄金時代の到来
鈴木春信の死後、安永・天明期(1770〜80年代)には、鳥居清長が八頭身の健康的な美人画を描いて人気を博した。さらに寛政期(1790年代)に入ると、蔦屋重三郎のような敏腕版元のプロデュースのもと、喜多川歌麿が女性の上半身を大きく描き内面をも表現する「大首絵」を用いて美人画の頂点を極め、東洲斎写楽が役者の個性や特徴を極端に誇張して描く斬新な役者絵を世に送り出した。この時期は江戸の町人文化(化政文化)が爛熟していく過程と軌を一にしており、錦絵は庶民の最大の娯楽であり、現代でいうグラビアやポスター、ファッション誌のような役割を果たす視覚メディアとして確固たる地位を築いた。
幕末期の展開と世界に与えた影響
江戸時代後期から幕末にかけては、庶民の間で社寺参詣などの旅行ブームが起きたことを背景に「名所絵(風景画)」が発達した。葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』は、西洋画の遠近法や輸入顔料である鮮やかな青色「ベロ藍(プルシアンブルー)」を効果的に用い、錦絵の新たな表現領域を開拓した。幕末の動乱期には、歌川国芳らによる武者絵や世相を反映した諷刺画も流行した。明治時代に入り、写真や石版画が普及すると錦絵は次第に実用的な役割を終えて衰退していくが、陶磁器の包装紙などとして海を渡った錦絵は、19世紀後半のヨーロッパにおいて印象派やポスト印象派の画家たちに多大なインスピレーションを与えた。このジャポニスム(日本趣味)と呼ばれる芸術運動を引き起こした錦絵は、日本のみならず世界美術史においても極めて重要な意義をもっている。