文化政治 (ぶんかせいじ)
【概説】
1919年の三・一独立運動を契機として、日本が朝鮮半島における植民地統治方針を従来の武力弾圧(武断政治)から融和・懐柔策へと転換した統治政策。大正デモクラシー期における原敬内閣のもとで進められ、形式的な制度緩和の一方で、巧妙な同化政策や運動の分断が図られた。
武断政治の破綻と方針転換の契機
1910年の韓国併合以来、日本は朝鮮総督府のもとで武断政治と呼ばれる高圧的な植民地支配を行っていた。この統治下では、憲兵が一般警察の役割を兼ねる憲兵警察制度が敷かれ、集会・結社の自由の剥奪、土地調査事業による農民の土地喪失など、朝鮮の人々に強い抑圧を強いていた。こうした不満が爆発したのが、1919年3月1日に発生した三・一独立運動(万歳運動)である。この全土に及ぶ激しい抵抗運動に対し、当時の原敬内閣は武力による抑圧のみでは統治の維持が困難であると判断し、国際世論の批判をかわす目的もあって、統治方針を「文治的」かつ「懐柔的」な「文化政治」へと変更することを決定した。
「文化政治」の具体策とその二面性
新たに第3代朝鮮総督に就任した斎藤実のもとで、様々な改革が打ち出された。まず、武断政治の象徴であった憲兵警察制度が廃止され、普通警察制度へと改められた。また、朝鮮総督の任用資格について、それまでの陸海軍大将限定から文官任用を可能とする官制改革が行われた。さらに、制限付きながら朝鮮語の新聞(『東亜日報』『朝鮮日報』など)の創刊が許可され、教育機会の拡大や朝鮮人の官公吏採用の道も開かれた。
しかし、これらの一連の「改革」は表向きの宥和策に過ぎず、その実態はより巧妙で緻密な支配体制の再編であった。文官総督の任用が可能となったものの、実際に日本の敗戦にいたるまで文官の総督が就任することは一度もなかった。警察制度についても、憲兵が普通警察に変わっただけで、かえって警察官の人数や派出所の数は激増し、治安維持法(1925年制定)の適用などによって、独立運動や社会主義運動への監視と弾圧はむしろ強化された。新聞の発行も厳格な事前検閲を伴うものであり、当局にとって不都合な記事は即座に発禁や削除の処分を受けた。
民族運動の分断と歴史的帰結
文化政治の最大の目的は、朝鮮国内の民族運動を内部から切り崩すことにあった。日本政府は、朝鮮人の地主や資本家、一部の知識人階級に対して一定の便宜や参政権の付与(地方評議会の設置など)を提示し、彼らを体制に取り込むことで親日派(植民地支配への協力者)として育成しようとした。これにより、即時独立を求める急進的な勢力と、合法的な枠内での自立や実力養成を目指す妥協的な勢力(妥協的自治運動)との間で、民族運動の分断が生じることとなった。こうした融和と分断の統治は1930年代まで続いたが、日中戦争の勃発以降、日本は朝鮮を大陸侵略の兵站基地化するため、再び過酷な皇民化政策(創氏改名や日本語の強制など)へと統治を移行させていくこととなる。