林鵞峰 (はやしがほう)
【概説】
江戸時代前期に活躍した朱子学派の儒学者。幕府の教学の祖である林羅山の三男であり、父の学術と政治的役割を継承して林家の地位を不動のものにした人物。幕府の正史となる『本朝通鑑』の編纂を主導し、江戸幕府における学政世襲の基礎を築いた。
林羅山の後継と林家における学政世襲の確立
林鵞峰は名は恕(しのぶ)、通称は春斎(しゅんさい)とも呼ばれ、若くして父・林羅山から儒学や歴史学を叩き込まれた。羅山の優れた助手として早くから頭角を現し、寛永年間から幕府の外交文書の起草や諸制度の調査など、実務面で父を補佐した。
1657年、明暦の大火によって林家の邸宅や膨大な蔵書が焼失し、その直後に失意の中で父・羅山が没すると、鵞峰は林家の家督を継承した。4代将軍徳川家綱の侍講として重用され、邸宅の再建とともに、幕府公認の学問所である弘文院の経営を引き継いだ。鵞峰が幕府の教学・儀礼に関する実務を一身に担ったことで、林家が代々幕府の教学を司る「大学頭(だいがくのかみ)」を世襲していく道筋が完全に確立されることとなった。
『本朝通鑑』の完成と徳川幕府の正統性確立
鵞峰の最大の業績は、日本最初の大規模な編年体官撰史書である『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)を完成させたことである。この事業はもともと父・羅山が3代将軍徳川家光の命を受けて着手したものであったが、明暦の大火により草稿が灰燼に帰していた。鵞峰は徳川家綱の命を受けて再着手し、膨大な史料を博捜・吟味し直して、1670(寛文10)年に全315巻に及ぶ大著として完成させた。
『本朝通鑑』は、神武天皇から後陽成天皇に至る日本の歴史を、儒教的(特に朱子学的)な大義名分論に基づいて体系化したものである。これは、武家政権である徳川幕府の支配が神話時代から続く日本歴史の流れの中で正当な位置にあることを論理的に証明しようとする、政治的・思想的な意図を持つ試みであった。この編纂事業を通じて、幕府における朱子学の官学化への流れはより決定的なものとなった。
多才な文化活動と後世への影響
鵞峰は政治や歴史編纂に留まらず、地誌や紀行文の執筆など多方面で活躍した。著書『日本国事跡考』の中では、松島、天橋立、宮島(厳島)を優れた景観として挙げており、これが現代に続く「日本三景」の起源となったことで知られている。
鵞峰の学問と政治的実践は、息子の林鳳岡(ほうこう)へと受け継がれ、後の5代将軍徳川綱吉の時代における湯島聖堂(昌平坂学問所)の建立や、林家の大学頭世襲へと結実していく。武断政治から文治政治へと移行する17世紀後半の過渡期において、鵞峰が果たした思想的・実務的貢献は極めて大きい。