宇垣一成 (うがきかずしげ)
【概説】
明治から昭和にかけて活躍した陸軍軍人、政治家。大正デモクラシー期に陸軍大臣を務め、4個師団の削減と軍の近代化を同時に進める「宇垣軍縮」を断行した人物。のちに首相指名(大命降下)を受けるも、陸軍の反発により組閣を阻まれたことでも知られる。
宇垣軍縮の断行と軍の近代化
第一次世界大戦後の世界的な軍縮機運(ワシントン会議など)や、国内における大正デモクラシーの台頭、さらには関東大震災後の財政難を背景に、陸軍は経費削減を迫られていた。1924年、護憲三派による加藤高明内閣が成立すると、陸相に就任した宇垣一成は、翌1925年に4個師団(約3万4000人)を廃止する大規模な兵力削減を断行した。これが世にいう「宇垣軍縮」である。
しかし、この改革の真の狙いは単なる軍備の縮小ではなかった。宇垣は軍縮によって浮いた予算を、戦車隊や航空隊、高射砲連隊の創設といった軍の近代化(「質的向上」)へと転用した。さらに、整理によって余剰となった将校たちのポストを確保するため、中等以上の学校に現役将校を派遣して軍事訓練を行う「学校配属将校」の制度を創設した。これにより、陸軍は軍人の失業を防ぎつつ、国民に対する軍事教育を強化することに成功した。
陸軍内の対立と「宇垣内閣流産」の歴史的意義
宇垣が進めた合理主義的な改革は、陸軍の規模縮小を嫌う保守派や、退職を余儀なくされた若手将校らの間に強い不満を植え付けることとなった。これが、のちの陸軍内部における過激な派閥抗争(皇道派と統制派の対立など)の伏線となっていく。また、1931年には陸軍急進派によるクーデター計画である「三月事件」において、首班候補として宇垣の名が担ぎ上げられたが、宇垣自身が直前で自重したため、計画は未遂に終わった。この事件は、宇垣に対する右翼や軍部急進派からの不信感をより強める結果となった。
1937年、林銑十郎内閣の退陣後、昭和天皇は宇垣に組閣を命じた(大命降下)。しかし、宇垣の軍縮に不満を持ち、かつての三月事件での「裏切り」を根に持つ陸軍主流派は、軍部大臣現役武官制を悪用して陸軍大臣の推薦を拒否した。その結果、宇垣は組閣を断念せざるを得なくなった(宇垣内閣流産事件)。この事件は、軍部が自らの意に沿わない内閣の誕生を阻止できる事実上の否決権を手にしたことを意味し、その後の「軍部の暴走」を決定づける象徴的な出来事となった。