宇垣軍縮 (うがきぐんしゅく)
【概説】
大正デモクラシー期の1925年(大正14年)に、陸軍大臣・宇垣一成の主導によって行われた大規模な陸軍の軍備整理。4個師団を廃止して人員を大幅に削減する一方、それによって浮いた予算を近代的な新兵器の導入に充て、軍の「質的向上」を図った政策である。
大正デモクラシーと国際協調主義の潮流
第一次世界大戦の終結後、国際社会ではワシントン会議に代表される平和と軍縮の機運(ワシントン体制)が高まっていた。日本国内においても、政党政治の確立(大正デモクラシー)を背景に、軍事費の削減と納税者の負担軽減を求める世論が急速に強まった。
これを受け、陸軍ではすでに1922年および1923年に山梨半造陸相による「山梨軍縮」が行われていたが、これは純粋な人員削減に留まっていた。1924年に「護憲三派」による加藤高明内閣が成立すると、さらなる緊縮財政と軍備整理が緊要の課題となり、陸相に留任した宇垣一成のもとで、より踏み込んだ軍事改革が断行されることとなった。
近代総力戦に対応するための「質的近代化」
宇垣軍縮の最大の特徴は、単なる兵力の規模縮小ではなく、第一次世界大戦で明らかとなった「総力戦」に対応するための軍備再編成(近代化)であった点にある。宇垣は、第13・第15・第17・第18の計4個師団(将兵約3万4千人、馬匹約6千頭)を廃止するという思い切った削減を行った。その一方で、これによって捻出された予算を使い、戦車隊や航空隊、高射砲隊、自動車隊などを新設・強化し、陸軍科学研究所を創設するなど、科学技術と機械化に裏打ちされた近代的な軍隊への移行を推進した。
また、軍縮に伴って余剰となった現役将校を救済すると同時に、国民への軍事思想の普及を図るため、中等以上の学校に現役の陸軍将校を派遣して軍事教練を指導させる「学校配属将校」の制度を1925年に創設した。これは、のちの昭和期において教育現場が急速に軍国主義化していく足がかりとなった。
軍内部の不満と昭和の軍部暴走への予兆
宇垣軍縮は、国民や政党の要求に応えつつ、国家財政の範囲内で陸軍の戦闘力を維持・強化しようとした極めて現実的かつ合理的な改革であった。しかし、この改革は陸軍内部に深い禍根を残すこととなった。
伝統ある師団の廃止や、多くの将校が事実上のリストラ(退役)に追い込まれたことは、現役軍人、とりわけ中堅・青年将校たちの間に、陸軍首脳部や政党政治に対する強い怨嗟の念を抱かせる結果となった。このときに蓄積された軍内部の不満や孤立感は、のちの1930年代における昭和の国家改造運動(右翼思想との結合)を刺激し、満州事変や五・一五事件、二・二六事件といった軍部の独走・暴走を招く遠因の一つとなった。