軍事教練 (ぐんじきょうれん)
【概説】
大正から昭和戦前期の日本において、中等学校以上の男子学生を対象に実施された軍事的な訓練教育。1925年の宇垣軍縮に伴って生じた余剰将校を学校に派遣する「陸軍現役将校学校配属令」を契機に本格化し、学校教育の軍国主義化を推し進める要因となった。
導入の背景:宇垣軍縮と陸軍の思惑
第一次世界大戦後の国際的な軍縮の潮流のなか、日本でも軍縮への世論が高まっていた。1925年(大正14年)、加藤高明憲政会内閣の陸軍大臣・宇垣一成は、4個師団(約3万4000人)を削減する、いわゆる「宇垣軍縮」を断行した。これにより、陸軍の近代化・機械化のための予算が確保された一方で、多くの現役将校が職を失う(余剰となる)危機に瀕することとなった。
この余剰将校の現職を確保すると同時に、将来の国家総力戦に備えて若年層に軍事知識や規律を植え付けたい陸軍の思惑から、同年4月に「陸軍現役将校学校配属令」が公布された。これにより、官公立の、および認可された私立の中等学校(中学校・実業学校など)や専門学校、高等学校、大学などの男子生徒・学生に対して、現役将校による組織的な軍事教練が施されることとなった。
教育の軍国主義化と反対運動
軍事教練の内容は、基本教練(整列、行進など)から始まり、模擬銃を用いた射撃訓練や戦術訓練、さらには野外演習にまで及んだ。この制度に対して、大正デモクラシーの自由主義的な風潮が残る教育界や学生の間からは、「教育の軍国主義化である」として強い反発が起こった。
その代表例が、1925年に北海道で起きた小樽高等商業学校(小樽高商)軍事教練事件である。これは、教練中の模擬演習の内容(左翼労働団体の襲撃を想定したものなど)に不満を抱いた学生たちが、教練のボイコットや配属将校の更迭を求めて運動を展開したものである。しかし、政府や陸軍はこれを社会主義思想の影響として厳しく弾圧し、以降、学校教育における軍事教練は不可避の義務として定着していくこととなった。
戦時体制への傾斜と軍事教練の終焉
1931年の満州事変以降、日本が準戦時体制、さらには日中戦争から太平洋戦争へと泥沼の総力戦へと突き進むなかで、軍事教練はさらにその役割を重くしていった。1930年代後半以降は、学校教育全体を戦時体制に即したものに再編する「教学刷新」の動きと連動し、教練は事実上の「兵営教育(軍隊内の教育)」へと変貌を遂げた。
教練を優秀な成績で修めることは、兵役期間の短縮や幹部候補生試験の優遇措置と直結していたため、学生たちにとっても無視できないものとなった。1940年代に入ると、戦局の悪化に伴い「学徒動員」や「学徒出陣」が本格化し、学生たちは教練の段階を経て直接戦場へと送り込まれることとなった。1945年(昭和20年)8月の敗戦により、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令のもとで軍事教練は全面的に廃止され、配属将校制度も終焉を迎えた。