林羅山(道春) (はやしらざん(どうしゅん)
【概説】
江戸時代初期に活躍した朱子学者。
藤原惺窩の推挙により徳川家康に仕え、以降、秀忠・家光・家綱の4代にわたって将軍の侍講を務めた。初期江戸幕府の法制立案や外交文書の起草を担い、朱子学に基づく幕府のイデオロギー形成に多大な貢献をした。
朱子学への傾倒と徳川家康への出仕
林羅山は1583年、京都に生まれた。幼少期より建仁寺などで仏教を学んだが、やがて儒学、特に朱子学に深く傾倒し、僧籍に入ることを拒んで還俗の姿勢をとった。その後、当時儒学の第一人者であった藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、その卓越した学才を開花させる。
1605年(慶長10年)、惺窩の強い推挙により、江戸幕府を開いて間もない徳川家康に謁見した。家康はその才気煥発な若き学者を高く評価し、彼を幕府の侍講(学問の講義役)として登用した。なお、当時の幕府において学者は僧侶の身分として仕えるのが慣例であったため、羅山は家康の命により剃髪して僧形となり、道春(どうしゅん)と称した。
幕藩体制のイデオロギー構築
羅山の最大の功績は、朱子学の理念を用いて江戸幕府の支配体制を理論的に正当化したことである。朱子学は宇宙の絶対的な法則である「理」と、天地万物の階層性を説く学問であり、羅山はこれを人間社会に当てはめ、君臣・父子・夫婦などの絶対的な上下関係を「天理」とする上下定分の理を提唱した。
これにより、士農工商という厳格な身分制度や、将軍を頂点とする幕藩体制は「自然の理法に従った正当なもの」として意味づけられた。戦国時代の「下剋上」の気風を払拭し、平和で安定した社会秩序(太平の世)を維持するためのイデオロギーとして、羅山の説く朱子学は幕府にとって極めて有用であった。
外交・法制・編纂事業における活躍
羅山は単なる学者にとどまらず、金地院崇伝や天海らと共に幕府のブレーンとして活躍し、初期幕政の現実的な課題にも深く関与した。1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件においては、豊臣氏が鋳造した鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」を徳川家を呪詛するものだと非難し、大坂の陣への口実作りに加担したことで知られる。
また、諸法度の制定や改訂、朝廷との交渉、さらには朝鮮通信使との応接や外交文書の起草など、幕府の法体系と外交政策の根幹を実務面から支えた。さらに、キリスト教を論理的に批判した『排耶蘇(はいやそ)』の執筆や、諸大名の系図をまとめた『寛永諸家系図伝』、日本の通史である『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』などの大規模な国家的編纂事業を主導し、幕府の権威を高める文化政策にも多大な貢献をした。
林家の祖としての歴史的意義
1630年(寛永7年)、羅山は3代将軍・徳川家光から江戸の上野忍岡(しのぶがおか)に土地を与えられ、私塾と孔子廟を建立した。これが後の湯島聖堂および幕府直轄の学問所(昌平坂学問所)の起源となる。
1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火によって、羅山は邸宅と膨大な蔵書を焼失し、その数日後に失意のうちに75歳で生涯を閉じた。しかし、彼が築いた学問的基盤は三男の林鵞峰(はやしがほう)をはじめとする子孫に受け継がれた。彼から始まる林家(りんけ)は代々幕府の儒官(大学頭)を世襲して教学の中心を担い、江戸時代を通じて日本の思想・文化に決定的な影響を与え続けることとなったのである。