本朝通鑑 (ほんちょうつがん)
【概説】
江戸時代前期に、林羅山・鵞峰父子が江戸幕府の命を受けて編纂した日本の歴史書。神代から後陽成天皇までの事績を漢文の編年体で記述している。幕府による公式な修史事業の先駆けであり、後の歴史観や他藩の編纂事業にも多大な影響を与えた。
幕府による修史事業の開始と編纂の経緯
『本朝通鑑』は、江戸時代初期に幕府が主導した大規模な修史事業の結実である。寛永21年(1644年)、第3代将軍・徳川家光の命を受けた儒学者・林羅山が、日本の歴史をまとめる作業に着手した。羅山は『本朝編年録』として編纂を進めていたが、明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火によって、完成間近であった草稿の大部分が焼失してしまう。羅山自身もその直後に失意のうちに世を去った。
しかし、修史事業が途絶えることはなかった。第4代将軍・徳川家綱の時代になると、大老・酒井忠清らの後押しもあり、羅山の三男である林鵞峰(がほう)に対して事業の再開と継続が命じられた。鵞峰は幕府から資金と人員の援助を受けながら全国の神社仏閣や公家から史料を収集し、寛文10年(1670年)に全310巻(本編300巻、前編・付録など10巻)に及ぶ膨大な歴史書をついに完成させた。
朱子学に基づく編年体の歴史叙述
本書は、中国・北宋の司馬光が著した名高い歴史書『資治通鑑(しじつがん)』をモデルとしており、書名もそれに由来している。歴史的事象を年月順に記述する編年体の形式をとり、全編が漢文で綴られている。内容は神話の時代(神代)から、第107代・後陽成天皇の慶長16年(1611年)までを対象としている。
林家は幕府の教学を担う朱子学者であったため、その歴史叙述も朱子学的な大義名分論に基づいている。単なる出来事の羅列ではなく、為政者の道徳的評価を織り交ぜながら歴史を展開し、武家政権、とりわけ徳川家による全国支配の正統性を歴史的に基礎づけようとする意図が随所に反映されている。
同時代の修史事業への影響と歴史的意義
『本朝通鑑』の完成は、同時代の知識人や諸大名に強い刺激を与えた。とくに有名なのが、水戸藩主・徳川光圀による『大日本史』編纂事業との関連である。一説によれば、光圀は『本朝通鑑』の草稿段階において、日本人の祖先を中国の古代王朝に求める「呉太伯説」が採用されそうになったことに強く反発し、日本の国体に即した独自の歴史書を作ることを決意したと伝えられている。
現在ではこの逸話の史実性には議論があるものの、幕府による修史事業が水戸藩の対抗意識を呼び起こしたことは確かである。結果として、『本朝通鑑』が漢文・編年体を採用したのに対し、『大日本史』は中国の正史に倣う紀伝体を採用し、独自の尊王論を打ち出すこととなった。このように、『本朝通鑑』は江戸幕府による最初の本格的な官撰修史事業として高い史料的価値を持つだけでなく、江戸時代の歴史思想や国学の発展に決定的な影響を与えた重要な事業であった。