聖教要録 (せいきょうようろく)
【概説】
江戸時代前期の儒学者・兵学者である山鹿素行が、1665(寛文5)年に著した思想書。当時、江戸幕府の事実上の官学であった朱子学を痛烈に批判し、孔子・孟子の原典へ立ち返ることを主張した。この著作が幕府の逆鱗に触れ、著書の発禁処分とともに、素行自身が播磨国赤穂藩へお預け(配流)となる契機となったことで知られる。
朱子学批判と「聖学」の提唱
『聖教要録』において山鹿素行は、宋代に大成された朱子学について、孔子や孟子ら古代の「聖人」の教え(聖教)から逸脱した、後世の歪められた解釈にすぎないと激しく批判した。素行は、解釈の積み重ねによって教条化した朱子学を否定し、経典の原典に直接依拠して聖人の真意を正しく理解すべきであるという古学(聖学)の立場を鮮明にした。
また、素行は武士の存在意義を思想的に位置づけた「士道」の先駆者でもあった。戦国期が終わり、泰平の世において軍事力を振るう機会を失った武士に対し、日々の自己修養と道徳的実践によって「民の師」たる支配者層としての本分を果たすべきだと説いた。この道徳的自覚を促す思想の根底にあったのが、他ならぬ『聖教要録』に示された聖学の精神であった。
「寛文の禁」と赤穂配流
『聖教要録』が刊行された翌年の1666年、幕府は本書を不届きな書物として発禁(絶版)とし、山鹿素行を播磨国赤穂藩(浅野家)へのお預け処分とした。この処分を主導したのは、4代将軍徳川家綱の後見人として文治政治を推進していた会津藩主の保科正之であったとされる。
保科正之は、朱子学(特に山崎闇斎の系統)を幕藩体制のイデオロギー的支柱として重んじていたため、そこから逸脱する素行の思想を体制秩序を揺るがす危険なものとみなした。この処分はのちに、寛政の改革期に行われる「寛政異学の禁」に先立つ、幕府による初期の学問・思想統制(寛文の禁)の代表例として位置づけられる。
思想史における影響と赤穂浪士への繋がり
素行の流刑地となった赤穂藩では、のちに藩老となる大石内蔵助をはじめとする藩士たちが、素行から直接・間接の教えを受けたとされている。素行が唱えた「士道」の精神、すなわち名分を重んじ、不義に屈しない武士の倫理観は、後の赤穂事件(元禄赤穂事件)における浪士たちの精神的支柱となったという見方が古くからなされている。
また、朱子学の権威を否定し、原典に直接学ぶという古学の方法論は、のちに伊藤仁斎の古義学や、荻生徂徠の古文辞学へと受け継がれ、発展していく。結果として『聖教要録』の出版とそれに伴う弾圧は、江戸時代中期の多様な儒学思想の開花を準備する、先駆的な画期となった。