登呂遺跡

重要度
★★

登呂遺跡 (とろいせき)

1世紀〜3世紀頃

【概説】
静岡県静岡市駿河区に位置する、弥生時代後期を代表する集落・水田遺跡。日本で初めて弥生時代の広大な水田跡や木製農具が良好な状態で発見され、日本の稲作社会の存在を考古学的に実証した遺跡として知られる。

戦時下の発見と日本考古学界における意義

登呂遺跡は太平洋戦争中の1943(昭和18)年、軍需工場の建設に際して偶然発見された。戦時下であったため本格的な調査は一時断念されたが、敗戦直後の1947年から考古学、歴史学、地質学、人類学など各分野の学者が結集し、日本初の合同学術調査が実施された。

当時の日本は敗戦により、それまでの皇国史観(神話に基づく歴史観)が崩壊し、科学的な実証主義に基づく新しい日本歴史の再構築が急務となっていた。登呂遺跡の発掘は、日本人の祖先が弥生時代においてすでに組織的な農耕社会を確立していたことを視覚的に証明し、戦後の歴史教育や日本再建の象徴として国民的な関心を集めることとなった。この発掘調査は、現代の日本の考古学における組織的調査の先駆け(出発点)として極めて重要なマイルストーンである。

高度な土木技術を示す水田跡と木製遺物

登呂遺跡の最大の特徴は、低湿地という環境(泥炭層)が幸いし、有機質である木製品や植物遺体が腐食せずに当時のまま保存されていた点にある。発掘調査では、竪穴住居跡や高床倉庫跡といった居住エリアだけでなく、それらに隣接する約8万平方メートルにおよぶ広大な水田跡が検出された。

この水田は、畦(あぜ)の決壊を防ぐために杭を打ち、木製の矢板(横板)を並べて補強するという高度な土木技術を用いて区画されていた。また、湿田での作業に用いられた田下駄をはじめ、鍬(くわ)や鋤(すき)などの木製農具、日常生活で使われた高坏(たかつき)などの木製容器が多数出土した。これらは、青銅器や鉄器などの金属器が普及しつつあった弥生時代後期においても、依然として木製品が生産活動の実用道具として主力を担っていた実態を如実に示している。

低湿地での暮らしと遺跡の終焉

登呂遺跡の周辺は安倍川の運んできた砂礫が形成した微高地であり、周囲は水はけの悪い低湿地であった。弥生人たちは、水が引きやすく稲作に適したこの地を選んで定住した。住居は一般的な竪穴住居に加え、湿気や洪水を避けるために周囲に土手(平地式に近い構造)を巡らせた平地式住居も構築されていた。

しかし、こうした低湿地での農耕生活は常に自然災害の脅威と隣り合わせであった。調査の結果、登呂遺跡は弥生時代末期(3世紀初頭頃)に、大規模な洪水による土砂の流入によって一瞬にして埋没したことが明らかになっている。住民たちは集落を放棄せざるを得なかったが、この災害によって遺跡全体が砂泥の中に密閉されたことが、結果として数千年の時を超えて良好な状態で遺構が現代に遺される要因となった。

南鍛冶山遺跡発掘調査報告書 第5巻 古代1 藤沢市都市計画事業北部第二(二地区)土地区画整理事業に伴う調査

古代の生活風景を鮮明に描き出し、発掘調査の記録を詳細に辿る、遺跡の全貌に迫る価値ある資料。

弥生集落像の原点を見直す・登呂遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」099)

弥生集落の定説を再考し、登呂遺跡が持つ歴史的意義を専門的な視点から紐解く、知的好奇心を満たす一冊。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 高松塚古墳に続いて発見され、石室内に四神すべてと獣頭人身の十二支像、そして本格的な天文図が描かれていた壁画は何か?
Q. 沖縄県那覇市で発見された、約3万2000年前のものとされる日本最古級の化石人骨を何というか?
Q. 稲の苗を植えやすくするため、水田に水を入れて土を砕き、泥状にかき混ぜて平らにならす作業を何というか?