紀伊(御三家) (きい)
【概説】
徳川家康の十男である徳川頼宣を藩祖とする親藩・御三家の一つ。現在の和歌山県および三重県南部にあたる紀伊国を領し、和歌山城を居城とした。将軍家の血統が絶えた際に後継者を出すという御三家としての重要な役割を担い、のちに8代将軍吉宗や14代将軍家茂などを輩出した。
紀伊徳川家の成立と初期の治世
徳川家康の十男・徳川頼宣は、当初常陸水戸、のち駿河府中を領していたが、1619(元和5)年、安芸広島へ転封となった浅野氏に代わって紀伊国和歌山に55万5000石で入封した。これが紀伊徳川家(紀州藩)の成立である。頼宣は駿河から優秀な家臣団を連れて入国し、和歌山城の大規模な拡張工事や城下町の整備を行い、紀州藩の基礎を固めた。
また、頼宣は浪人問題を背景とする1651年の慶安の変(由井正雪の乱)において、首謀者の由井正雪が頼宣の印鑑を偽造していたことから幕府の嫌疑を受けたことでも知られる。これは、家康の直系として強い自立性を誇っていた紀伊家に対して、幕府が一定の警戒を抱いていたことの表れともいえる。
将軍の輩出と幕政への多大な影響
御三家(尾張・紀伊・水戸)の最大の役割は、将軍家の血統が絶えた際に将軍の継嗣を出すことであった。この制度が歴史上最も決定的な意味を持ったのが、7代将軍徳川家継が早世し、家康の直系(将軍家本流)が断絶した際である。1716(享保元)年、紀伊家第5代当主であった徳川吉宗が第8代将軍として迎えられた。
吉宗は紀伊藩主時代の実績をもとに「享保の改革」と呼ばれる大規模な幕政改革を主導していく。吉宗以降の歴代将軍はすべて紀伊家の血筋から出ることになり、尾張家や水戸家に対して幕政における圧倒的な優位性を決定づけた。のちの幕末期にも、第13代将軍徳川家定の継嗣問題(将軍継嗣問題)において、南紀派の推挙により紀伊家出身の徳川慶福(のちの徳川家茂)が第14代将軍に就任している。
独自の藩政と産業振興
紀伊国は平地が少なく山地が大半を占める地形であったため、米の生産高は表高の55万石に対して実高はそれを下回るという厳しい財政事情を抱えていた。そのため、歴代藩主は米作以外の産業振興に力を注いだ。特に有名なのが「紀州みかん」に代表される果樹栽培や、熊野地方の豊富な森林資源を生かした林業(熊野材)、そして黒潮の恩恵を受ける沿岸部での捕鯨や漁業の奨励である。
第5代藩主であった吉宗は、将軍就任前に質素倹約の徹底と厳しい財政再建を行い、藩の借金を完済して多額の準備金を蓄えることに成功した。この紀州藩における財政再建の成功体験が、のちの幕政における享保の改革のモデルとなった点において、紀伊家の藩政は日本史上で極めて重要な意味を持っている。
幕末期の動向と終焉
幕末期になると、第14代将軍として家茂を輩出した紀伊藩は、佐幕派の中心的な存在として幕府側で深く関与した。特に第一次・第二次長州征討においては、和歌山城や紀州藩領が幕府軍の後方拠点となり、藩兵も動員された。しかし、家茂の死と大政奉還によって幕府の権威が失墜すると、時代は急速に倒幕へと傾く。
1868年の鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗北すると、紀伊藩は新政府軍に恭順し、存続を図った。その後、版籍奉還を経て、1871(明治4)年の廃藩置県によって和歌山県(一部は三重県)に再編され、およそ250年にわたる紀伊徳川家による支配は終焉を迎えた。