島津家久

家康の許可を得て1609年に琉球へ出兵し、琉球王国を服属させた薩摩藩主は誰か。
カテゴリ:
重要度
★★

島津家久 (しまづいえひさ)

1576年〜1638年

【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、初代薩摩藩主。徳川家康の許しを得て1609年に琉球へ兵を送り、琉球王国を服属させた人物である。藩政の基礎を固めるとともに、近世における日本の対外関係に大きな影響を与えた。

「島津忠恒」から「家久」へ:同名異人との混同回避

日本史において「島津家久」の名を持つ重要人物は2人存在する。一人は戦国時代に島津氏の九州制覇に大きく貢献した名将・島津家久(島津義弘の弟)であり、もう一人がその甥にあたり、初代薩摩(鹿児島)藩主となった本項の島津家久(初名は忠恒)である。混同を避けるため、歴史研究や教科書においては藩主となった彼を「島津忠恒(つね)」と表記することも多い。

家久は島津義弘の三男として生まれた。本来は家督を継ぐ立場になかったが、伯父・島津義久に男子がいなかったことや、兄たちの早世によって後継者となった。関ヶ原の戦いでは父・義弘とともに西軍に属したが、戦後は徳川家康に対して粘り強い和平交渉を行い、奇跡的に領地(薩摩・大隅・日向の一部)を安堵された。その後、2代将軍徳川秀忠から「家」の偏諱を授かり、島津家久と改名して藩主の地位を確立した。

1609年の琉球出兵とその背景

徳川体制下で初代藩主となった家久は、1609(慶長14)年に大将・樺山久高率いる約3000の軍勢を派遣し、琉球出兵(琉球侵攻)を断行した。この出兵は、事前に江戸幕府(徳川家康・秀忠)の許可を得た上で行われたものである。

出兵の直接的な背景には、島津氏が抱えていた深刻な財政難がある。関ヶ原の戦い後の過大な軍役負担に加え、薩摩藩特有の膨大な家臣団を養う必要があった。さらに、中国(明)との交易を仲介していた琉球王国が、島津氏の度重なる要求(豊臣政権期からの貢納要求など)を拒否し続けたことが引き金となった。島津軍は圧倒的な軍事力で奄美群島を制圧し、首里城を攻略して琉球国王の尚寧(しょうねい)を捕らえ、駿府の家康や江戸の秀忠のもとへと連行して服属を誓わせた。

「二重朝貢」の形成と近世対外関係における歴史的意義

家久による琉球征服の結果、琉球王国は薩摩藩の支配下(実質的な幕藩体制の枠組み内)に組み込まれた。しかし、完全に滅亡させられたわけではなく、王国という形式的な国家体制は維持された。これには高度な政治的判断が存在した。

当時、日本は明との国交が途絶えていたが、家久は琉球に中国(明、のちの清)への朝貢を継続させた。これにより、琉球は日本(薩摩藩・幕府)に従属しながらも、中国の冊封国でもあるという「二重の朝貢(服属)関係」に置かれることとなった。薩摩藩は琉球を通じて中国の物資や銀などの交易利得を独占的に獲得し、藩財政を潤すことに成功した。

この構造は、のちに江戸幕府が敷く「鎖国」体制下において、対外窓口となった「四つの口」の一つ(薩摩口)として組み込まれた。島津家久による琉球出兵は、単なる地方大名の領土拡張にとどまらず、近世日本の国際外交や貿易構造の骨格を決定づける歴史的事象であったと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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