申楽談儀 (さるがくだんぎ)
1430年
【概説】
室町時代中期の能楽(猿楽)に関する重要な芸道論書。大成者である世阿弥が語った演技論や能の歴史、演出法などを、彼の次男である観世元能が聞き書きしてまとめたものである。
成立の背景と観世元能による編纂
『申楽談儀』は、室町時代中期の1430年(永享2年)に成立した。当時、能楽を大成した世阿弥は、将軍足利義教の寵愛を失い、一座の主導権を甥の音阿弥(三郎元重)に奪われるなど、政治的・経済的に極めて厳しい境遇に置かれていた。こうした芸術の存続が危ぶまれる危機的な状況下において、世阿弥の次男である観世元能が、父が日常的に語っていた芸術的な教えや技術が散逸することを恐れ、その言説を丹念に聞き書きして記録にとどめた。元能自身は本書をまとめた後に能の世界を離れて出家したが、彼の執念とも言える記録活動によって、観世流の芸の神髄が後世へと散逸することなく継承されることとなった。
記述内容の特徴と芸能史における意義
本書は、世阿弥の主著である『風姿花伝』などの伝書が抽象的・哲学的な美学を追求しているのに対し、きわめて具体的かつ実践的な内容を含んでいる点に最大の特徴がある。能の演技や歌謡(謡)、舞の具体的な技術から、舞台上の演出、小道具の扱い方、果ては楽屋での心得に至るまで、現場に即した詳細な記述がなされている。また、世阿弥自身やその父・観阿弥の時代における名優たちの芸風やエピソード、大和猿楽四座の成り立ちといった能楽の歴史的伝承も豊富に収録されている。そのため、室町期における芸能の実態や、中世の人々がどのような美意識を持って舞台に接していたかを具体的に解き明かすための、第一級の歴史史料として高く評価されている。