東日本大震災 (ひがしにほんだいしんさい)
【概説】
2011年(平成23年)3月11日に発生したマグニチュード9.0の巨大地震と大津波により、東北地方太平洋岸などに壊滅的な被害をもたらした未曾有の大災害。地震と津波による直接的な被害に加え、福島第一原子力発電所事故という深刻な複合災害を引き起こし、現代日本の社会構造やエネルギー政策に多大な影響を与えた。
観測史上最大の地震と巨大津波の襲来
2011年(平成23年)3月11日14時46分、三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。地震の規模を示すマグニチュードは9.0を記録し、これは日本の観測史上最大、世界においても1900年以降で第4位の規模となる超巨大地震であった。強烈な揺れは東日本の広範囲に及んだが、最大の被害をもたらしたのはその直後に襲来した巨大な津波である。岩手県から宮城県、福島県にかけての三陸沿岸を中心に、場所によっては高さ10メートル以上、遡上高(津波が陸を駆け上がった高さ)で40メートルに迫る大津波が押し寄せた。これにより多数の市街地や集落が飲み込まれて壊滅し、死者・行方不明者の数は関連死を含めて2万人を超え、戦後の日本において最悪の自然災害となった。
福島第一原子力発電所事故とエネルギー政策の転換
地震と津波による被害を国家規模の危機へと発展させたのが、東京電力福島第一原子力発電所事故である。地震発生により運転中の原子炉は自動停止したが、その後の想定を大きく超える大津波によって非常用ディーゼル発電機を含む全電源を喪失した。これにより原子炉の冷却機能が完全に失われ、1号機から3号機において炉心溶融(メルトダウン)が発生、建屋の水素爆発とともに大量の放射性物質が外部環境へ放出される事態となった。
この事故は、国際原子力事象評価尺度(INES)においてチェルノブイリ原子力発電所事故と並ぶ最高レベルの「レベル7」と評価され、周辺住民は故郷からの長期避難を余儀なくされた。同時に、日本の高度経済成長を支えてきた「原発は絶対的に安全である」という安全神話を根本から崩壊させた。事故後、国内のすべての原子力発電所が一時稼働を停止するなど、国のエネルギー政策や原子力行政に抜本的な見直しを迫る歴史的転換点となった。
復興への道のりと社会意識の変容
当時の菅直人内閣(民主党政権)をはじめとする政府は、未曾有の国難に対して緊急対応にあたり、翌2012年には被災地復興の司令塔として復興庁が創設された。インフラの復旧や防災集団移転促進事業(高台移転)、巨大な防潮堤の建設が進められる一方で、被災者の心のケアや地域コミュニティの再建、福島における放射能汚染に伴う風評被害の払拭など、復興には長期にわたる困難な課題が山積した。
他方で、震災を契機として全国から多数のボランティアが被災地に駆けつけ、「絆」という言葉に象徴される社会的な連帯感や相互扶助の精神が広く共有された。さらに、国民の防災意識も劇的に変化し、ハザードマップの再確認や津波避難タワーの整備、企業の事業継続計画(BCP)の策定など、いつ起こるかわからない巨大災害に対する備えが社会全体の急務として定着することとなった。
歴史的視座から見た東日本大震災
日本史の長いスパンで俯瞰すると、東北地方の太平洋沿岸は、平安時代の貞観地震(869年)や、近代の明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)など、過去にも度重なる巨大津波災害に見舞われてきた地域である。東日本大震災は、これらの歴史的教訓が現代においてもなお重い意味を持つことを再認識させるものであった。
同時に、現代の高度に発達したインフラや科学技術に対する過信への痛烈な警鐘となり、「想定外」をなくすための新しい防災・減災のあり方を日本人に模索させる契機となった。その意味で、東日本大震災は単なる一過性の自然災害にとどまらず、平成期以降の日本の国家運営、国土開発のあり方、そして日本人の自然観に決定的な影響を与えた極めて重大な歴史的事象として位置づけられる。